最近、エドウィージ・ダンティカの『愛するものたちへ、別れのとき』を読んだ。ダンティカは、ハイチ出身で、アメリカに暮らす女性作家だ。彼女が本書を書くきっかけになったのは、大切な存在だった父親ともうひとりの父親といえる伯父の死だった。彼女は、父親と伯父の物語を通して、ハイチの歴史や移民の苦闘を描き出していく。
本書の巻頭には、ポール・オースターの『孤独の発明』から、以下の文章が引用されている。
「死から始めるのだ。そこから、ゆっくりと、生へと戻って行く。そして、最後に、死へと帰って行く。でなければ、だれかについて何かを言おうとしても、むなしいだけ」
この文章は筆者にクリント・イーストウッド監督の作品を思い出させる。『真夜中のサバナ』に登場する女祈祷師は、「死者と語り合わなければ、生者を理解できない」と語る。『トゥルー・クライム』の主人公である筋金入りの記者は、死刑執行を目前にした男の無実を証明するために、事故死した同僚に導かれるように真相に迫っていく。
『ブラッド・ワーク』では、心臓移植手術を受けたFBI捜査官が、ドナーが殺人事件の犠牲者だったことを知り、死者に導かれるように残酷な真実に至る。『ミリオンダラー・ベイビー』では、死を通して生を探求したW・B・イェイツの詩が象徴的に引用される。『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』は、まさに戦場に散った死者たちの声を聞く映画だった。
そんなイーストウッドの世界は、前作『グラン・トリノ』で大きな変貌を遂げた。この映画では、死者の声に耳を傾けるだけではなく、死者の側に立っていかにその声を伝えようとするのかが描き出される。生と死の境界から、さらに向こう側へと踏み込んでいるのだ。だから、イーストウッドが『グラン・トリノ』を経て、どんな世界を切り開くのか注目していた。
新作『インビクタス 負けざる者たち』では、南アフリカ共和国初の黒人大統領となったネルソン・マンデラとラグビー南ア代表スプリングボクスの主将フランソワ・ピナールの絆が奇跡を生み、世界を変えていく。
予定調和的な感動を生み出すこの映画は一見、イーストウッドらしからぬ作品に見える。そこには生と死の境界をめぐるドラマがない。だが、よく見ればそれが巧妙に埋め込まれていることに気づくはずだ。モーガン・フリーマン演じるマンデラの姿は、しばしばシルエットに近いかたちでとらえられ、独特のオーラを放っている。それは、大統領としてのオーラでも、不屈の闘志を持った活動家としてのオーラでもない。
筆者はその姿を見ながら『ミリオンダラー・ベイビー』のモーガン・フリーマンのことを思い出していた。リングで片目を失い、ボクサー生命を絶たれた男スクラップ。登場人物であると同時に物語の静かな語り手でもある彼は、ジムのなかに幽霊のように存在していた。『インビクタス』のマンデラもそれと同じオーラを漂わせている。 |