プレスに「この映画の主役は脚本だわ」というヒラリー・スワンクの言葉があるが、筆者もまったく同感だ。人物の関係や背景など、原作の短編、というより短編集すべてによほど心酔していなければ、こうは膨らませられないだろうと思える肉付けがされている。
この短編集のプロローグで、著者はボクシングについて、「煎じ詰めればその根源には敬意がある」と書いている。その“敬意”がこの映画のテーマだが、根源に至る道はひどく険しい。
原作の短編の冒頭には、老いたトレーナーのこんな言葉が並ぶ。「ボクシングってのは自然に反した行動なんだ」「ボクシングは、何もかも生きることに反している」「苦痛を避けるのは、生きてる人間にとってはごく自然のことだ。だがボクシングでは、あえてその苦痛に近づいていくんだ」。これらの言葉はそのまま映画にも盛り込まれている。この映画は、そんなパラドックスを内包する世界を通して、敬意とは何かを冷徹に突き詰めていく。
LAに小さなジムを構える老いたトレーナーのフランキーは、二十年以上も毎日教会に通っている。その理由はふたつある。ジムの雑用係スクラップは元ボクサーで、フランキーは彼の現役最後の試合でカットマンを務めた。その時彼は、危険を察知しながらも、ボクサーに敬意を払い、最良の仕事をし、結果としてスクラップは片目を失った。その後トレーナーとなった彼は、ボクサーを育てるものの、リスクのある試合を避けている。
一方で彼は、何らかの事情で娘から絶縁され、彼女に手紙を送り続けている。しかし手紙は送り返され、箱にたまっていく。それでも会いに行こうとはせず、手紙を書くのが彼の敬意であり、それはラストで大きな意味を持つ。但し彼は、教会で救いや答えが得られるとは思ってない。神学問答で若輩の神父を困らせるために通っているようなものなのだ。
しかし、彼の前にマギーという女性ボクサーが現われたことから、ふたりは根源に至る最も険しい道を歩むことになる。そんな彼らの運命は、スクラップが見せるもうひとつの敬意と巧みに対置されている。
スクラップは、知的障害のある孤児がジムで過ごすのを容認している。チャンプに挑戦すると豪語する若者のリングは夢のなかにしか存在しないが、父親的な存在でもあるスクラップはそれを尊重し、彼に敬意を払う。フランキーとマギーは、ボクシングの世界で失った娘と父親を取り戻し、頂点を目指す。彼らは、現実のリングで敬意を確認しあい、やがて苛酷な運命のなかでそれを試される。そんなふたつの敬意の対照が、このドラマを奥深いものにしているのだ。
そして、フランキーがアイルランド系であることも重要な意味を持つ。彼は、神話に傾倒したW・B・イェイツのゲール語の詩集を愛読し、マギーに「モ・クシュラ」というゲール語の名前をつけることで、アイルランド人たちを奮い立たせる女闘士に仕立て、最後にイェイツの望郷の念が込められた初期の詩「イニスフリーの湖島」を読んで聞かせる。またこの映画は、意識して時代背景を曖昧にするような画作りをしている。つまり、根源に向かう彼らの旅は、神話的な世界を切り開いていくことにもなるのだ。 |