三人のルーツはインド=パキスタンにあるが、ミュージシャンとして最初からそれを強く意識していたわけではないし、お互いの接点がすぐに広がっていったわけでもない。スティーヴ・コールマンの影響を受けたアイヤーは、90年代半ばから自身のアルバムをリリースするようになり、98年の『Architextures』でマハンサッパが参加し、00年の『Panoptic Modes』や03年の『Blood Sutra』へと結びつきを深めていく。そして一方では、04年の『Mother Tongue』や06年の『Codebook』といったマハンサッパのアルバムにアイヤーが参加するようになる。
レズ・アバシは、90年代末のアルバム・デビュー当時はパット・メセニーに通じるギタリストという印象が強かったが、05年の『Snake Charmer』あたりから明確にパキスタンを意識するようになり、06年の『Bazaar』でマハンサッパが参加するようになる。そして、マハンサッパがインドに対してこれまでにない独自のアプローチを見せる08年の『Kinsmen』と『Apti』にアバシが参加したことで、結びつきを強めていく。
そんな結びつきがさらに発展し、この『Things To Come』では、三者がコラボレーションを展開することになった。彼らは音楽活動のなかでそれぞれにインドを意識するようになり、接点が広がっていったが、ではそのインドとは何を意味するのだろうか。
筆者は彼らの音楽を聴きながら、ノーベル経済学賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・センがインドの歴史や文化、アイデンティティを掘り下げた『議論好きなインド人――対話と異端の歴史が紡ぐ多文化世界』のことを思い出していた。
本書では、インドの特性として対話の伝統と異端説の受容が強調される。著者のセンは、その象徴として仏教徒だったインドの帝王アショーカとムスリム皇帝アクバルに繰り返し言及する。紀元前三世紀、アショーカは、公共的な討論のための最も初期の規則を規定し、広めようと努力した。「かれは寛容の必要と異端説の豊かさを指摘しただけではなく、敵に対しては「いかなる場合でも、あらゆる形で、正しく敬意をはらう」べきだとした」。一方、アクバルは1590年代に、アショーカと同じように、さまざまな信条の信奉者間での対話を促進した。
センがなぜ対話の伝統と異端説の受容にこだわるのかといえば、インドでは90年代末から2000年代初頭にかけてヒンドゥー至上主義が台頭し、過去や歴史を塗り替えようとしたからだ。インドは、人口の八割がヒンドゥー教徒でも、イギリスとフランスの人口をあわせたよりも多い、世界で三番目に大きなムスリム人口を擁している。
センによれば、ヒンドゥー至上主義は、インドがその内部に抱える多様な構成要素をひとつにまとめようとしただけではない。世界には、少なくとも2000万人の規模にのぼるインド人のディアスポラが存在するが、「とくに北米とヨーロッパのインド人ディアスポラからヒンドゥー至上主義に寄せられる大きな支持」があるという。ちなみに、ヒンドゥー至上主義の問題については、エドワード・ルースの『インド 厄介な経済大国』でも一章を割いて詳しく論じられている。
では、先述したディアスポラのジャズ・ミュージシャンたちは、インドになにを見出すのか。筆者には、彼らはセンが強調しようとするような特性を見出しているように思える。
マハンサッパの『Mother Tongue』はわかりやすい。「母語」を意味するこのアルバムに並ぶ曲名は、“Kannada(カンナダ語)”、“Gujarati(グジャラート語)”、“Telugu(テルグ語)”、“Konkani(コンカニ語)”、“Tamil(タミル語)”、“Malayalam(マラヤラム語)”など、インドで使われている様々な言語で占められ、“Change of Perspective”という曲で締め括られる。マハンサッパがアバシと作ったグループの名前は、Indo-Pak Coalition(インド−パキスタン連合)で、そのアルバム『Apti』のタイトルは、何語だかわからないが、英語ではcome togetherを意味するという。さらに、アイヤーのアルバムのタイトルはいつも面白いと思う。たとえば、“Memorophilia”、“Architexture”、“Tragicomic”、“Historicity”など、彼は、ふたつの言葉を結びつけた造語やそれに類するイメージを持った言葉を意識して選んでいる。
この三人は、単にジャズとインド音楽の融合を目指しているわけではない。アバシの近作では、タブラのリズムと響きが欠かせない要素になっていたが、この『Things To Come』ではそれが封印されている。それでも、フレーズ、リズム、アンサンブル、テクスチャーなど、既成のジャズとは明らかに一線を画している。彼らは、言葉ではなく音楽を通して対話し、異端を受容し、新たなパースペクティヴを切り拓こうとするインド人ディアスポラだといえる。 |