もしファウスタがずっとおじ一家を頼っていれば、母親の世界を生きつづけることだろう。だが彼女は母親を故郷の村に埋葬することを望む。そのためには自力で交通費などの費用を捻出しなければならない。彼女は町の裕福な女性ピアニストの屋敷でメイドとして働くことになる。
この映画では、そんな展開を通して「喪」と「自己への目覚め」が重ねられていく。『殯の森』、『心の羽根』、『ルイーサ』などで言及しているように、喪の映画では、異界が切り拓かれ、他者が現れる。この映画も例外ではない。
ファウスタが働く女性ピアニストの屋敷は異界となり、彼女の前にふたりの他者が現れる。ひとりは雇い主のピアニストで、彼女はスペイン語で話す。もうひとりは屋敷に出入りする庭師のノエ。ファウスタと母親は先住民の言葉であるケチュア語で繋がっていたが、ノエもまたケチュア語で語りかけてくる。
ファウスタはノエに親近感を覚えるが、恐れが消え去ることはない。だが、ある出来事によって彼女が変化する。スランプに陥っていたピアニストが、ファウスタが口ずさむ歌に関心を持ち、ほどけたネックレスの真珠を一粒ずつ差し出すかわりに、彼女に歌を歌わせる。
ファウスタはこれまで母親の世界におびえていただけで、自身で喪失の痛みを経験したことがない。そんな彼女は、大切な歌を、その意味も理解されることなく奪われることではじめて喪失を体験し、打ちのめされる。その結果、ファウスタ自身としてノエという他者に心を開く。そして、「いま」と「ここ」から母親を 送ることになる。
クラウディア・リョサ監督は、女性ならではの感性と寓意に満ちた物語を通して、ペルーの過去と現在を実に鮮やかに描き出している。 |