夫の仕事の都合で各地を転々とする生活を送るアマンダは、夏の間だけ滞在するために、娘のニナと車でアルゼンチンの農村にやって来て、プール付きの家に落ち着く。そんなアマンダを歓迎するように、カローラという地元の女性が訪ねてくる。アマンダは一目で彼女に惹かれ、ふたりは親しくなっていく。
そのカローラにはダヴィドという息子がいるが、彼女はその息子をモンスター呼ばわりし、近づかないように警告する。そして、7年ほど前にダヴィドを襲った病気のことを打ち明ける。彼の体になにか有害なものが入り、救急センターに連絡してもすぐに医者が来るような場所ではないので、地元の人々が頼る”緑の家”に運んだ。緑の家の女性は、毒が回って命が危ない彼を救うために、”移し”と呼ぶ療法を試す。
それは、ダヴィドの魂を健康な体に移すことであり、彼の半分がどこに行くかはわからないが、ふたつの体に分けられた毒は闘いに負ける。ダヴィドは以前と同じではなくなるが、少なくとも生き延びられる。母親は、以前とは違う息子に対して責任を負わなければならないが、カローラはダヴィドを受け入れられなかった。
アマンダにはそんな話を信じられるはずもなく、なんの抵抗もなくダヴィドを受け入れていくが、次第に彼の行動に脅威を感じるようになる。
ここであらためて確認しておかなければならないのは、これが現在進行形で表現されていることではなく、動けなくなったアマンダが手繰り寄せている記憶だということだ。その記憶の積み重ねには、アマンダとダヴィドの現在進行形の会話が頻繁に挿入される。
その会話で重要なのは、厳密にいえば、ダヴィドはアマンダに、彼女に起こったことを単純に思い出させようとしているわけではないということだ。ダヴィドは、彼女の断片的な回想に対して、それは重要ではないので、もう一度、その前に戻るように、というように指示を出す。そうすることで、彼女に見えていなかった細部に関心を振り向け、実はなにが起こっていたのか、気づかせようとしている。
たとえば、アマンダが、農村に着いて、家の管理人を訪ねたときのことを語ると、ダヴィドは、管理人が飼っている犬に関心を振り向ける。その犬は、前足が1本欠けていることに気づく。そのあとに、農薬を散布する光景がつづくと、そこに嫌な空気が漂う。ずっと先のことになるが、カローラが働く農場の敷地で、ニナがワンピースを濡らしたとき、アマンダはそれを朝霧だと思ってしまう。だが、細部を見ればそうではないことがわかる。
アマンダとダヴィドの会話でもうひとつ見逃せないのは、物語が展開していくに従って、ダヴィドの印象が大きく変化していくことだ。特に重要なのは、アマンダもニナも発病し、カローラによってニナも緑の家に運ばれたことが示唆される終盤の展開だ。動けないアマンダは、ニナがどこにいるのかを気にかけるが、そんな彼女にダヴィドは、僕はここにいると語りかける。そのことによって、ニナの魂がダヴィドの体に移ったのだと想像することができる。
本作の原作と本作の原題”Distancia de rescate”は、「救える距離」を意味する。アマンダは、目の届く場所にいるニナとの距離を常に計算し、必要以上にリスクを見積もる。ニナが、借りた家のプールに落ちた場合に、どのくらいで駆け付けることができるかを瞬時に考えている。だが、先述したように、ニナがワンピースを濡らしたとき、娘は目の前にいるが、アマンダにはリスクが見えない。そして、動けないアマンダとニナの魂が移ったと思われるダヴィドが向き合うとき、ふたりをつないでいた糸は見えない力によって断ち切られる。
アマンダの夫マルコがカローラの夫オマールを訪ねる本作のエピローグは印象深い。アマンダもカローラも消え去り、男たちは、自分たちの妻子になにが起こったのかわからない。彼らが気づかぬうちに、ダヴィドがマルコの車に乗り込み、ニナと同じようにモグラのぬいぐるみを抱え込んでいる。それはダヴィドの体にニナの魂が宿っていることを物語るが、男たちにはそれを想像することもできない。
『悲しみのミルク』では、母親の記憶の世界を生きていたヒロインが、イニシエーションによって「いま」と「ここ」に目覚め、自分の世界を生きるが、本作では、人々を取り巻く見えない力によって、家族が分断され、世界が崩れていくように見える。 |