心の羽根
Des plumes dans la tete / Feathers in my Head  Des plumes dans la tete
(2003) on IMDb


2003年/ベルギー=フランス/カラー/110分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:『心の羽根』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

自然のなかに描き出される喪と成長の儀式

 

 ベルギーのスモールタウンに暮らす主婦ブランシュは、夫のジャン=ピエールと5歳になる息子アルチュールとともに幸福で平穏な生活を送っていたが、ある日、息子の事故死という悲劇に見舞われる。彼女は、葬儀を終えても息子の死を受け入れられず、息子が死んだ沼地に入り浸り、彼の幻影とともに過ごすようになる。

 だが、沼地に入り浸っているのは彼女だけではない。孤独な若者フランソワは、傍目にはバード・ウォッチャーに見えるが、自然のなかで実験と称して密かに自分に様々な試練を課している。そんなふたりの出会いはやがて、彼らそれぞれにとって重要な儀式となっていく。

 ベルギーの新鋭トマ・ドゥティエールの長編デビュー作『心の羽根』は、台詞やその他の説明的な表現に頼ることなく、映像によって独自の世界を構築していく作品である。この映画における彼の映像表現の魅力は、大きくふたつに分けることができる。

 ひとつは、日常生活に対する鋭い洞察と緻密に計算された構成から生まれるドラマである。たとえば、アルチュールが沼地に姿を消すまでには、家族3人で過ごす場面が何度かあるが、そうした場面における"大人の時間"と"子供の時間"のコントラストに注目してみると、両親と息子の関係に微妙な変化があることがわかる。

 まず、家族が食卓を囲んでいる場面がある。アルチュールは折り紙のカエルで遊び、両親がそれに付き合っている。その遊びに飽きてきた両親がキスしだすと、アルチュールは食卓を離れ、ひとりでテレビの前に移動する。一見すると、彼が大人の時間に席を譲ったかのように見えるが、実はそうではない。アルチュールはテレビの画面に顔を寄せ、両親の気を引く。すると母親のブランシュが彼のところにやってきて、話をしているうちに、画面奥の父親の姿が次第に闇に包まれていく。

 トウモロコシ畑の場面では、トウモロコシを見つめるブランシュに父親のジャン=ピエールが寄っていく。彼らは、キスするうちに気持ちが高ぶっていくが、幹の間からアルチュールがいきなり姿を現すと、父親はおどけてみせ、場の空気ががらりと変わる。どちらの場面でも、両親はお互いを求めているが、子供の時間が優位に立っているのだ。

 しかし、プールの場面では違う。ブランシュは、水中で身体をまさぐり合っている若いカップルに見とれている。そこにジャン=ピエールが寄っていって、キスをはじめ、ふたりはそのまま水中に潜ってしまう。アルチュールは、両親に飛び込みを見せようとするが、彼の声は水中には届かない。ここでは、大人の時間の方が優位に立つ。そして、両親が部屋に鍵をかけてセックスする場面では、アルチュールは完全に閉めだされることになる。

 一方、こうした日常のドラマと絡み合いながら、日常の生の営みに新たな光を当てていくのが、個人と社会や自然との繋がりを独自の視点でとらえる映像表現である。

 この映画の冒頭で、アルチュールは、野鳥の雛が草むらにいるのを見つけ、それを母親の膝に乗せる。ところが彼女は、もの思いに耽るように遠くを見つめ、小さな嘴で手をつつく雛の存在にすら気づかない。アルチュールが箱に入れた雛が消えても、また別のを見つければいいと語るだけで、関心を示そうとはしない。

 ブランシュは息子を心から愛しているが、母子の間には微妙なすれ違いがある。アルチュールは、いま自然に少しずつ触れることで、新たな世界を発見しつつある。しかしブランシュは、それを幼児の無邪気な遊びの延長としか見ていない。そんなズレが、先述したような日常のドラマへと発展していくのだ。


◆スタッフ◆

監督/脚本   トマ・ドゥティエール
Thomas de Thier
撮影 ヴィルジニー・サンマルタン
Virginie Saint-Martin
編集 マリーエレーヌ・ドゾ
Marie-Helene Dozo
音楽 シルヴァン・ショボー
Sylvain Chauveau

◆キャスト◆

ブランシュ   ソフィー・ミュルーズ
Sophie Museur
ジャン=ピエール フランシス・ルノー
Francis Renaud
アルチュール ユリッス・ドゥスワーフ
Ulysse de Swaef
フランソワ アレクシス・デンドンケル
Alexis Den Doncker
祖母 コレット・エマニュエル
Colette Emmanuelle

(配給:オフィスサンマルサン)
 


 さらに、この冒頭のエピソードには、もうひとつの意味がある。アルチュールが見つけた雛は、彼やブランシュが気づかないうちに、猫の餌食になっている。母子のまわりには、苛酷で美しい自然の営みがある。それは、アルチュールがやがて知ることになったであろう世界であり、いままさにフランソワという孤独な若者が、試練を通して体験している世界でもある。

 ドゥティエール監督は、この自然との関係や距離を映像で実に鮮やかに表現している。アルチュールは、自然に触れることはあっても、その境界はまだ不鮮明である。だから彼の世界では、野鳥の雛や水路を流れていくアヒルのオモチャの群れ、カタツムリと絵具、渡り鳥とゴジラを思わせる怪獣のオモチャなど、自然と遊びが並置されている。しかし、だんだん自然への好奇心が膨らみ、この不鮮明な境界を一気に飛び越えてしまうのだ。

 そして、息子の死を受け入れることができないブランシュも、幻想のなかで、この自然と遊びがないまぜになった世界を追体験する。彼女は、息子との生活のなかで見過ごしていたものに触れていることになる。しかし、スーパーマーケットの場面やジャン=ピエールとの関係が物語るように、その幻想は現実との間に軋轢を生みだす。それでも彼女が幻想を守ろうとすれば、命を絶つしかなくなる。彼女が折り紙の船で旅立つ姿は、自分を息子のヴィジョンに封じ込めようとすることを物語っている。

 しかし、彼女は、フランソワとの出会いによって変わる。ふたりは、自然との境界をめぐって対照的な立場にある。息子とともにある彼女は、自然には触れても、遊びの領域からは踏みだせない。一方、"実験"によって自然と同化しようとする彼は、自然に近づくほど人間としての欲望が抑えられなくなり、自慰に耽っている。ピンナップの花が咲いた木(もちろん彼女の仕業である)は、その対照的な立場を実にユーモラスに表現している。

 そんなふたりは、ひとつになることでそれぞれに壁を越える。フランソワを通して、やがて息子が見出したであろう世界に到達したブランシュは、その場所から息子の幻影を振り返り、喪失の悲しみに打ちひしがれることで解放され、現実を取り戻していくのである。


(upload:2005/04/17)
 
 
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