ベルギーのスモールタウンに暮らす主婦ブランシュは、夫のジャン=ピエールと5歳になる息子アルチュールとともに幸福で平穏な生活を送っていたが、ある日、息子の事故死という悲劇に見舞われる。彼女は、葬儀を終えても息子の死を受け入れられず、息子が死んだ沼地に入り浸り、彼の幻影とともに過ごすようになる。
だが、沼地に入り浸っているのは彼女だけではない。孤独な若者フランソワは、傍目にはバード・ウォッチャーに見えるが、自然のなかで実験と称して密かに自分に様々な試練を課している。そんなふたりの出会いはやがて、彼らそれぞれにとって重要な儀式となっていく。
ベルギーの新鋭トマ・ドゥティエールの長編デビュー作『心の羽根』は、台詞やその他の説明的な表現に頼ることなく、映像によって独自の世界を構築していく作品である。この映画における彼の映像表現の魅力は、大きくふたつに分けることができる。
ひとつは、日常生活に対する鋭い洞察と緻密に計算された構成から生まれるドラマである。たとえば、アルチュールが沼地に姿を消すまでには、家族3人で過ごす場面が何度かあるが、そうした場面における"大人の時間"と"子供の時間"のコントラストに注目してみると、両親と息子の関係に微妙な変化があることがわかる。
まず、家族が食卓を囲んでいる場面がある。アルチュールは折り紙のカエルで遊び、両親がそれに付き合っている。その遊びに飽きてきた両親がキスしだすと、アルチュールは食卓を離れ、ひとりでテレビの前に移動する。一見すると、彼が大人の時間に席を譲ったかのように見えるが、実はそうではない。アルチュールはテレビの画面に顔を寄せ、両親の気を引く。すると母親のブランシュが彼のところにやってきて、話をしているうちに、画面奥の父親の姿が次第に闇に包まれていく。
トウモロコシ畑の場面では、トウモロコシを見つめるブランシュに父親のジャン=ピエールが寄っていく。彼らは、キスするうちに気持ちが高ぶっていくが、幹の間からアルチュールがいきなり姿を現すと、父親はおどけてみせ、場の空気ががらりと変わる。どちらの場面でも、両親はお互いを求めているが、子供の時間が優位に立っているのだ。
しかし、プールの場面では違う。ブランシュは、水中で身体をまさぐり合っている若いカップルに見とれている。そこにジャン=ピエールが寄っていって、キスをはじめ、ふたりはそのまま水中に潜ってしまう。アルチュールは、両親に飛び込みを見せようとするが、彼の声は水中には届かない。ここでは、大人の時間の方が優位に立つ。そして、両親が部屋に鍵をかけてセックスする場面では、アルチュールは完全に閉めだされることになる。
一方、こうした日常のドラマと絡み合いながら、日常の生の営みに新たな光を当てていくのが、個人と社会や自然との繋がりを独自の視点でとらえる映像表現である。
この映画の冒頭で、アルチュールは、野鳥の雛が草むらにいるのを見つけ、それを母親の膝に乗せる。ところが彼女は、もの思いに耽るように遠くを見つめ、小さな嘴で手をつつく雛の存在にすら気づかない。アルチュールが箱に入れた雛が消えても、また別のを見つければいいと語るだけで、関心を示そうとはしない。
ブランシュは息子を心から愛しているが、母子の間には微妙なすれ違いがある。アルチュールは、いま自然に少しずつ触れることで、新たな世界を発見しつつある。しかしブランシュは、それを幼児の無邪気な遊びの延長としか見ていない。そんなズレが、先述したような日常のドラマへと発展していくのだ。 |