殯の森
La Foret de Mogari / The Forest of Mogari


2007年/日本/カラー/97分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「キネマ旬報」2007年7月上旬号)

彼らは他界のなかで生に目覚めていく

 河瀬直美監督の『殯の森』の舞台は、奈良県の山里にあるグループホームだ。そこに暮らす認知症の老人しげきと新任の介護士の真千子は、それぞれに深い喪失感を抱えている。しげきは、33年前に亡くなった妻の真子を想い続け、二人だけの世界を生きている。真千子は、我が子の死にとらわれ、自分を責めている。

 この映画の前半部分には、テーマに関わる印象的な場面がふたつある。ひとつは、ホームを訪れた住職と老人や職員が対話する場面だ。しげきは「私は生きているんですか」と尋ねる。それに対して住職は、心が虚ろになれば生の実感が失われるが、たとえば、しげきに触れた真千子の手を通してその温もりが伝わるとき、実感がもたらされると答える。

 だが、しげきも真千子も、その時点で生を実感することはできない。心を閉ざしているからだ。この映画は、そんな二人の関係を通して、生の実感とは何かを掘り下げていく。真千子は、気づかぬうちにしげきの世界に踏み込み、突き飛ばされるという痛い目にもあうが、次第に彼と打ち解けていく。茶畑で子供のように戯れる二人の姿にはそれがよく現れている。しかし、この映画がとらえようとするのは、個と個の繋がりから生まれる生の実感だけではない。彼らが戯れる茶畑の背後の森には、別の世界が広がっている。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/プロデュース   河P直美
撮影 中野英世
照明 井村正美
録音 阿尾茂毅
美術 磯見俊裕
音楽 茂野雅道
 
◆キャスト◆
 
しげき   うだしげき
真千子 尾野真千子
和歌子 渡辺真起子
真千子の前夫 斉藤陽一郎
真子 ますだかなこ
-
(配給:組画)

 そこで注目したいのが、もうひとつの場面だ。この映画は、伝統的な葬送の場面から始まる。葬列は、緑が鮮やかな水田を抜け、山へと向かっていく。この場面から筆者が連想するのは、宮家準の『霊山と日本人』にある以下のような記述だ。

農耕を守る村里近くの山岳は水源地としての性格を持っていた。ここには水分の神が祀られることが多かった。村はずれにある里山は、村人たちの墓所でもあった。陵墓を「山陵」、棺を「ヤマオケ」、葬列の出発を「山行き」といっていることは、このことを示している。こうしたことから、山は祖霊の住む他界とも考えられ、一般に山中他界観といわれている

 しげきと真千子は、そんな土地に根ざした伝統を生きてはいない。しかし、しげきの妻の墓参りに出かけた二人が、車のトラブルに見舞われ、森を彷徨い続けるとき、彼らは自分の肌と心で他界を感じ取っていく。

 森のなかでは、介護するものとされるものという立場も剥ぎ取られる。しげきは、雨で増水しかけた浅瀬をひとりで渡ろうとする。真千子は彼を止めようとするものの、身体が動かなくなり、激しく泣き叫びだす。それは、彼女のなかでその状況が、子供を失ったときの体験と結びついているからだろう。亡妻のことだけを想ってきたしげきは、そんな真千子に自分と同じ喪失の痛みを見出す。そして、彼らの心と身体は、死を媒介として生に目覚めていく。

 森のなかで、介護士として追い詰められる真千子は、繋がらない携帯電話を掲げ、外部に救いを求めた。しかし最後に、しげきのオルゴールを掲げる彼女は、見えないものと繋がり、浄化されているのだ。

《参照/引用文献》
『霊山と日本人』 宮家準●
(日本放送協会、2004年)

(upload:2007/12/24)
 
《関連リンク》
『七夜待』 レビュー ■
河P直美インタビュー 『七夜待』 ■
『玄牝−げんぴん―』 レビュー ■
『朱花の月』 レビュー ■
『朱花(はねづ)の月』 公式サイト ■
============================ ====
『蟲師』レビュー ■
地霊となって甦る歴史 ■
アンドレイ・ズビャギンツェフ・インタビュー ■

 
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