そこで注目したいのが、もうひとつの場面だ。この映画は、伝統的な葬送の場面から始まる。葬列は、緑が鮮やかな水田を抜け、山へと向かっていく。この場面から筆者が連想するのは、宮家準の『霊山と日本人』にある以下のような記述だ。
「農耕を守る村里近くの山岳は水源地としての性格を持っていた。ここには水分の神が祀られることが多かった。村はずれにある里山は、村人たちの墓所でもあった。陵墓を「山陵」、棺を「ヤマオケ」、葬列の出発を「山行き」といっていることは、このことを示している。こうしたことから、山は祖霊の住む他界とも考えられ、一般に山中他界観といわれている」
しげきと真千子は、そんな土地に根ざした伝統を生きてはいない。しかし、しげきの妻の墓参りに出かけた二人が、車のトラブルに見舞われ、森を彷徨い続けるとき、彼らは自分の肌と心で他界を感じ取っていく。
森のなかでは、介護するものとされるものという立場も剥ぎ取られる。しげきは、雨で増水しかけた浅瀬をひとりで渡ろうとする。真千子は彼を止めようとするものの、身体が動かなくなり、激しく泣き叫びだす。それは、彼女のなかでその状況が、子供を失ったときの体験と結びついているからだろう。亡妻のことだけを想ってきたしげきは、そんな真千子に自分と同じ喪失の痛みを見出す。そして、彼らの心と身体は、死を媒介として生に目覚めていく。
森のなかで、介護士として追い詰められる真千子は、繋がらない携帯電話を掲げ、外部に救いを求めた。しかし最後に、しげきのオルゴールを掲げる彼女は、見えないものと繋がり、浄化されているのだ。 |