2003年のヴェネチア国際映画祭で、グランプリである金獅子賞に輝いたのは、ロシア映画の『父、帰る』。64年生まれのアンドレイ・ズビャギンツェフは、この映画で、初監督作品にしてグランプリを受賞するという快挙を成し遂げた。しかも彼は、ロシア映画界においても、傍流に属するまったく無名の存在だった。もともと舞台俳優だったズビャギンツェフは、映画制作の専門的な教育を受けることもなく、テレビでシリーズものの三話を手がけただけで、この長編を作り上げ、いきなりロシア映画の歴史に新たな一頁を加えることになったのだ。
『父、帰る』の物語は、一見きわめてシンプルに見える。12年間も消息不明だった父親が、ある日突然、家族のもとに帰ってくる。彼は、ふたりの息子を小旅行に連れだし、大人になるための試練を与える。兄はそんな厳しい父親を受け入れていくが、目の前にいるのが父親だという実感を持てない弟は事あるごとに激しく反発し、やがて悲劇が起こる。
この映画では、時代背景や社会状況を示す情報が削ぎ落とされていくが、そのミニマリズムは逆に新たな謎を生み出していくことにもなる。父親は誰かとしきりに連絡をとり、息子たちと無人島に渡ると密かに金属の箱を掘りだす。さらにこの映画には、父親が画面に登場した瞬間からイエス・キリストに喩えられるように、随所に宗教的なモチーフが埋め込まれている。そして、そんな聖と俗がひとつになるとき、どこにでもありそうなシンプルな物語からは、神話的な世界が浮かび上がってくるのだ。
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『父、帰る』でまず注目しておかなければならないのは、脚本と映画の距離だろう。プロデューサーのレスネフスキーが見つけてきたオリジナルの脚本は、ギャングなどが絡んでくるジャンル色の強いドラマだったという。映画にもその片鱗は見られるが、軸になるのはあくまで父親と息子たちのドラマであり、兄弟には窺い知れない父親の行動や過去は、ジャンルの枠を越えたところで「謎」と化していく。
「確かに私は、オリジナルの脚本からジャンル色を極力排除していったのですが、粗筋の部分まで削ってしまうわけにはいきませんでした。それは、観客の関心を持続させなければならないということもありますが、このジャンルの扱いについては、サスペンスに対する私なりの考えが反映されています。たとえば、ドストエフスキーの長編小説には、殺人をめぐるミステリ的な要素がありますが、小説そのものはミステリではない。アントニオーニ、ブレッソン、フェリーニ、ベルイマンの作品にも必ずサスペンスの要素がある。サスペンスのない映画は、色のない絵画や空気の振動がない音楽に等しい。サスペンスというのは、ジャンル色でも表現手段でもなく、映画という言語の血であり、肉であり、不可分なものだと思うのです」
この映画から排除されているのはジャンル色だけではない。主人公の父子は、最終的に無人島へと至る旅のなかで町に立ち寄ることもあるが、そのドラマから社会状況や時代背景が見えてくることはない。そうなると逆に気になるってくるのが、父親が12年ぶりに家族のもとに帰ってくるという設定だ。12年前という時間は、ソ連の崩壊という具体的な出来事を連想させるからだ。
「それは単なる偶然というべきでしょう。オリジナルの脚本が書かれたのは2000年のことですが、そのなかでも12年ぶりということになっていました。この映画のスタッフは少数だったので、私やカメラマンは衣装担当者などと協力して、時代を示す要素を極力排除するという意味での時代考証をやりました。社会の変動が見えれば、ロシア人には時代がすぐにわかってしまうので、自動車の車種やナンバープレート、公衆電話、洋服、食器やスプーンに至るまで、できる限り時代がわからないようにしたのです。だから、70年代といっても、80年代といっても、2004年といっても、通用するはずです」
ジャンル色や時代を示す要素を排除したドラマは非常にシンプルに見えるが、そこには独自の象徴的な表現が散りばめられ、現実の世界のなかに、宗教的、神話的な世界が切り開かれていく。この映画に出てくる二つの塔は、そんなドラマの鍵を握っているといえる。まず冒頭では、塔から水に飛び込めるかどうかをめぐって兄弟の間に亀裂が生まれ、その塔の上で、母親が飛び込めない弟を受け入れる。父親と兄弟がたどり着いた無人島にも、同じような塔があり、まず父親と兄がその塔を共有し、やがてそこで父親と弟が対峙する。
「ロシア正教における洗礼の儀式は、いまでは形式的なものになり、ただ水をかけるだけなのですが、もともとは全身を水に浸すことになっていました。まだ神に至っていない人間、古い人間を水に溶かし込んでしまうという儀式だったのです。この映画で、弟が水に飛び込めないというのは、兄弟を争わせるために必要な設定だったのですが、兄が飛び込む姿を真上からとらえ、全身が水に浸るのを目にした時点で、私にはそれが洗礼なのだとわかりました。つまり、水に飛び込んだ兄は、父なる神に帰依できる人間であるのに対して、弟はまだ迷っている人間だということです。母親はそんな弟を受け入れますが、帰ってきた父親は、最初からイニシエーションを強要しつづけ、塔の場面につながります。冒頭の塔の場面が母親の愛の象徴であるとするなら、最後の塔の場面は、自分を犠牲にして息子を救うという父親による愛の表現なのです」 |