黒沢清監督の『叫(さけび)』では、東京湾岸の埋立地という舞台が重要な意味を持つ。急いで埋立てられたために海水の水たまりが点在する裸地で、女が殺害され、連続殺人事件に発展していく。被害者たちはみな、顔を海水に押し込まれ、溺死していた。事件を捜査する刑事の吉岡は、現場に自分の痕跡を見出すと同時に、赤い服を着た女の幽霊に付きまとわれるようになり、混乱をきたしていく。
この映画では、『CURE』のように、関連のない加害者たちが同じ手口で殺人を犯す。その謎は、幽霊の過去と繋がりがあることが後に明らかになるが、この手口には別の意味もある。加害者たちは、「全部をなしにしようと思った」と語る。その言葉は、自分の都合だけで恋人や家族を殺し、過去を消し去ろうとすることだけではなく、過去と未来の狭間で宙吊りとなり、醜悪な姿を晒す埋立地を海に戻してしまおうとすることも意味する。
だから、被害者たちは海水に押し込まれ、溺死しなければならないのだ。そして、地震とともに現れる幽霊とは、土地の歴史を守護する地霊でもあり、そんなふうに過去を切り捨てようとする者たちを罰するのだ。
『CURE』や『回路』の世界を継承するこの『叫』には、『ドッペルゲンガー』と『LOFT ロフト』を経なければ、切り開けないヴィジョンがある。『ドッペルゲンガー』では、主人公がふたつに分裂する。『LOFT』では、二台のカメラでほとんど同じ位置から同じものを撮り、微妙に異なる映像がランダムに切り替わることもあり、冒頭から異なる感情に動かされるふたりの主人公がいるように見える。
そして『叫』にも、ふたりの吉岡がいる。このドラマでは、すべてを連続殺人に封じ込めようとする刑事の吉岡と、失われた記憶をたぐり寄せようとする吉岡が、激しくせめぎ合い、最後にひとつになる。彼が抱えるバッグのなかで、ふたつのものがひとつになることは、まさにそれを象徴している。そして、地霊を受け入れた彼は、世界の罪を背負い、それを償うために旅立つのだ。
70年代末に社会現象を巻き起こした都市伝説が現代に甦る白石晃士監督の『口裂け女』には、この『叫』にも通じる発想がある。口裂け女は、地震によって封印が解かれ、復活を遂げる。彼女は、ある種の病のように他人に転移する。とり憑かれた女性は、咳が止まらなくなり、豹変する。
彼女の住処は、町外れの山のなかにぽつんと立つ荒れ果てた家屋で、『叫』の幽霊のそれと似た空気を漂わせている。そして、彼女は、児童虐待や歪んだ家庭といった現実に忍び寄るのだ。
長尾直樹監督の『アルゼンチンババア』は、よしもとばななの原作の設定が、どう生かされているのかが見所となる。その設定には、現代社会と過去の対比があるからだ。愛する妻を亡くしたことを受け入れられずに逃げ出した父親と、彼の娘のみつこは、アルゼンチンババアと呼ばれる謎めいた人物がひとりで暮らす屋敷で再会する。
田舎町の外れ、草原のなかにぽつんと立つその建物は、日常とは隔てられた異界≠ナあり、原作ではこのように表現されている。「アルゼンチンビルの中には、なにひとつ「なくなってしまったもの」がないから、時間が人の頭の中の力によってすっかり止まってしまっているから、そこに流れている時間は特別なもので、決して過去と現在を分けて流れてはいない」
この映画では、人工的な色彩をさり気なく強調することによって、『シザーハンズ』の住宅地とその外れに立つ屋敷のように、田舎町とこの屋敷がワンセットになり、寓話的な世界を作り上げていく。しかし、残念ながら、終盤に物語がそんな世界の外部へと広がってしまい、限定された空間の魅力は損なわれてしまう。
戦後の復興著しい東京を舞台にした今川泰宏監督のアニメ『鉄人28号 白昼の残月』でも、現在と過去がテーマになり、設定はまったく異なるが、『叫』に通じる世界が浮かび上がってくる。
まず、主人公の正太郎の前に、もうひとりの正太郎が現れる。それは戦後ずっと行方不明になっていた同姓同名の義兄のショウタロウ≠ナあり、彼は兵器としての鉄人の操縦士だった。同じ頃、東京の地底の至る所に廃墟弾≠ニ呼ばれる戦争の遺産が埋設されていることが明らかになる。その兵器は、繁栄する東京を廃墟に変え、過去を甦らせる威力を持っている。そして、ふたりの正太郎は、現在と過去をめぐって、それぞれに激しい葛藤を強いられることになるのだ。
かつて『AKIRA』でその鉄人28号≠ノオマージュを捧げた大友克洋監督の『蟲師』は、漆原友紀の人気コミックを実写で映像化した作品である。自然界に棲息し、ほとんどの人の目には見えない蟲≠ニ、そして人々と蟲の狭間を彷徨い、その均衡を保とうとする蟲師の世界を描くことは、現代に地霊を呼び覚ますことのようにも思える。
この映画は、日本の原風景や蟲の世界の映像も素晴らしいが、脚本にも注目すべきものがある。物語は、原作から選び出された四つのエピソードがベースになっているが、それを単純に並べるのではなく、緻密に組み合わせてひとつにまとめ、主人公の蟲師ギンコとは何者なのかを独自の視点で浮き彫りにしていく。
たとえば、ギンコと行動をともにする虹郎との関係は、故郷や旅をめぐる蟲師と人間の立場の違いを明確にしていく。角のはえた少女の病の背景にある亡き母親と彼女の強い絆は、かつてギンコが母親のように慕い、姿を消したぬいと彼の絆に呼応する。そのぬいの痕跡を見出したギンコは、ラストで失われた過去と向き合うことになるのだ。 |