石川雄一郎が東京湾岸の埋立地の変遷をたどった『さまよえる埋立地』は、こんな文章で始まる。「陸化のすすむ東京の湾岸は、溺れ谷ではなかろうか。埋立てによって海底地盤が隆起し、その上に建てられる高層建造物が都市の尾根筋をのばす。しかし、その地盤は固まっているかに見えて、軟弱さを底にため込んでいる。浚渫された砂・ヘドロ、あるいは腐敗する生ゴミ、腐らない耐久消費財・建設残土などが混在し、地盤は雑駁なまま。これらスキマの多い「混迷土壌」は地中でジワジワと崩れ、静かに沈降しつづける。沈降して液状化がすすめば地震のさいに地が滑り、都市の尾根筋が海に溺れる可能性もある」
黒沢清監督の『叫』は、まさにそんな湾岸地域を舞台としている。急いで埋立てられた裸地には、海水の水たまりが点在する。そこで女が殺害され、連続殺人事件へと発展していく。被害者たちは、顔を海水に押し込まれ、溺死していた。
埋立地に建つ老朽化した団地に暮らす主人公の刑事・吉岡は、この事件を捜査するうちに、現場に自分の痕跡を見出すと同時に、赤い服を着た見知らぬ女の幽霊に付きまとわれるようになり、混乱を来たしていく。長い付き合いになる恋人の春江は、そんな彼を静かに見守ろうとする。
この連続殺人事件は、『CURE』を想起させる。だから、われわれの関心は、異なる加害者たちがなぜ同じ手口で殺人を犯すのかということに向かう。第一の殺人では、男が女と激しくもみ合った末に、彼女の頭を水たまりに押し込む。第二の殺人では、医師が手におえなくなった息子を湾岸の工事現場までわざわざ連れ出し、薬物で身体の自由を奪い、海水のたまった容器に顔を押し込む。
第三の殺人では、社長と不倫関係にある女子社員が、わざわざポリタンクで大量の海水を運び、バスタブに満たし、意識が朦朧としている社長を押し込む。それは、ひとつ間違えば滑稽にも見えかねない。
やがて、その手口は、幽霊の過去の体験と結びついていることが明らかになる。だがそれは、単純な結びつきではない。注目しなければならないのは、この手口が、幽霊だけではなく、土地とも深い関わりを持っていることだ。
この湾岸地域では、かつて夢見られた未来は完全に幻影と化している。その土地は、過去と未来の狭間で宙吊りとなり、醜悪な姿を晒している。そんな風景は、人々の内面を象徴してもいる。吉岡は、「このへん全部が、もとの海に戻る、みんな案外それを望んでいるのかもしれない」と語る。
加害者たちは、「全部をなしにしようと思った」と語る。彼らが、「全部をなしにする」ということは、未来を失った土地を自分たちの都合だけで勝手に海に戻すことを意味する。だから、被害者たちは海水に押し込まれ、溺死しなければならないのだ。 |