黒沢清監督の作品には、常に境界をめぐるドラマがあるが、その境界に対する視点や表現は大きく変化しつつある。
たとえば、『カリスマ』では、一本の木と森全体をめぐって人々が対立しているが、その対立に巻き込まれた主人公は、やがてこう語る。「特別な木も、森全体というものもない。平凡な木があちらこちらに生えているだけだ」。『回路』では、インターネットを通して生と死の境界が崩壊することで、生の現実感が揺らいでいく。つまり、これまでの作品では、境界が崩壊していく過程からドラマが浮かび上がってきた。
ところが前作『アカルイミライ』では、境界の位置づけががらりと変わる。これは、すでに存在している境界が崩壊していく物語ではない。境界のないところに、クラゲが増殖していくことによって新たな境界が生まれ、その境界によって、まるで別の生き物であるかのように存在していた二つの世代のあいだに接点ができる。
この映画では、あらゆる境界が崩壊していく現実をとらえるのではなく、新たな境界を設定することによって、求心力を失った世界や人が変わる可能性を見出そうとする。新作の『ドッペルゲンガー』には、そんな視点が引き継がれている。この映画でも、境界がないはずのところに新たな境界が生まれる。
主人公の早崎道夫は、医療機器メーカーで全身麻痺の患者の手足となる車椅子型の人工人体の開発を進めている。彼は10年前に大ヒット商品となった血圧計を開発しており、このプロジェクトにも期待が寄せられているが、研究の成果は一向に上がらず、イライラが募っている。
そんなある日、彼の目の前に瓜二つの分身が現れ、彼に力を貸すと言いだす。つまり、主人公とその分身のあいだに新たな境界が生まれ、その境界をめぐってドラマが展開していくことになる。
早崎は最初は分身に怯えているが、次第に彼を利用するようになる。早崎が研究に集中できなかったのは、上司や会社がプロジェクトや予算などに口を出してくるからだった。すると分身は研究室を勝手に破壊し、解雇された早崎に別の研究室や助手を提供する。分身は汚れ仕事をすべて引き受け、早崎の手足となる。
この早崎と分身の協力関係によって人工身体は完成する。しかし、目的が達成されると、分身の存在が目障りになる。そこでポイントになるのが、分身が現われる以前の早崎と以後の早崎は同じ人間なのかどうかということだ。それによって、新たに生まれた境界の意味も変わってくるからだ。
黒沢監督は、『アカルイミライ』の公開前にインタビューしたときに、『ドッペルゲンガー』の内容をこのように予告していた。
「もう完成してますが、公開はまだ先のことで、ずばりコメディですね。ふざけた映画です。境界は露骨に絡んできますね。これはコメディだから成立した映画なんですけど、ひとつだったものがふたつに割れる。まさにドッペルゲンガー(分身)なんですけど、最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」
このコメントと『ドッペルゲンガー』は、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』のなかにあるこんな記述を思い出させる。
「無性生殖の場合、単純な生物、つまり細胞は、成長過程の一時点で二つに分裂する。二つの核が形成されるのだ。たった一つの存在から二つの存在が生じるのである。この場合、最初の存在が第二の存在を一つ一つ産出したと言うことはできない。二つの新たな存在は同じ資格で最初の存在の産出物である。そして最初の存在は消滅してしまったのだ。(中略)というのも、最初の存在は、自分が産みだした二つの存在のうちどちらにおいても生き残っていないからである」 |