筆者がまず連想したのは、ピーター・ウィアーの『トゥルーマン・ショー』とフランソワ・オゾンの『ホームドラマ』。本作の母親は、『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンのように、知らないうちに幸福な家族を演じているわけではないが、彼女が中心となって構築されている幸福の過剰な人工性には近いものを感じる。『ホームドラマ』では、父親が持ち帰ったペットのネズミが家族に奇妙な影響を及ぼし、妻と子供たちが同性愛、自殺未遂、SM、乱交パーティや近親相姦を繰り広げていく。本作でも、少女ティンヤが持ち帰った異質な存在が、作りものの幸福な家族に揺さぶりをかけていく。
しかし、卵から孵った“それ”が擬態し、ティンヤのドッペルゲンガーになっていくとき、連想する作品は、黒沢清の『ドッペルゲンガー』に変わる。この映画では、医療機器メーカーで車椅子型の人工人体の開発を進めている技術者・早崎の前に、ある日突然、瓜二つの分身が現れ、彼に力を貸すと言い出す。
やがて早崎はその分身を利用するようになる。彼が研究に集中できなかったのは、上司や会社がプロジェクトや予算などに口を出してくるからだった。すると分身は研究室を勝手に破壊し、解雇された早崎に別の研究室や助手を提供する。分身は汚れ仕事をすべて引き受け、早崎の手足となっていくが――。
本作のティンヤはドッペルゲンガーを利用するわけではない。むしろ止めようとする。だが、本質的には同じ問題が掘り下げられる。つまり、ドッペルゲンガーを排除すれば少女はもとの自分に戻れるのか、ということだ。
その問いに対する答えとなるラストを見ると、本作の主人公はティンヤではなく、母親のように思えてくる。完璧な家族を求める母親の凄まじい圧力が、少女のドッペルゲンガーを生みだし、ふたつのものをひとつに戻すことはできず、象徴的な意味で少女を別人に変えてしまい、一家を悪夢へと引き込んでいく(ことを予感させる)。そこには確かに、家族に起こり得る現実を垣間見ることができる。 |