「無性生殖の場合、単純な生物、つまり細胞は、成長過程の一時点で二つに分裂する。二つの核が形成されるのだ。たった一つの存在から二つの存在が生じるのである。この場合、最初の存在が第二の存在を一つ一つ産出したと言うことはできない。二つの新たな存在は同じ資格で最初の存在の産出物である。そして最初の存在は消滅してしまったのだ。(中略)というのも、最初の存在は、自分が産みだした二つの存在のうちどちらにおいても生き残っていないからである」
あまりにも極端な引用だと思われるかもしれないが、バタイユはこれを人間に当てはめてもいる。
「すなわちあなたの身が今ある一つの状態から二つの分身へ完全に分かれるという変化である。しかもこの二重化においてあなたは生き残ることができないのだ。というのも、あなたから出た二人の分身はあなたと本質的に異なっているからである。必然的に、これらの二人の分身のどちらも、今あるあなたと同じ存在にはならないのだ」
アイオアディがこうしたテーマに強い関心を持っていたとしても不思議はない。たとえば、初監督作品『サブマリン』は、15歳の主人公オリバーの以下のようなモノローグから始まる。「大抵の人は自分を唯一無二の“個”と考える。そう思うことで起きて普通に生活できる」。だが、オリバーにとっては普通に生活することが難しいからこそ、そんなことを考える。そして、「人生を生き抜くために空想の世界の自分を思い描く」。そんな彼は、現実と幻想の間を往復することになる。
さらにこの映画の終盤には、バスタブのなかに沈む自分を、もうひとりの自分が見つめる場面がある。アイオアディは、現実のオリバーと妄想のオリバーを通して、この少年のイニシエーションを描き出しているといえる。
そんな監督が、“ドッペルゲンガー”をタイトルにするドストエフスキーの作品と出会えば、バタイユの引用にあるテーマも視野に入ってくるのではないか。
この映画で最初に印象に残るのは、透明人間でもないのに、誰にも見えていないのではないかと疑いたくなるような心理を描き出す巧みな表現だ。会社に向かうサイモンが電車を降りようとすると、配達員らしき男がドアを塞ぎ、ホームにあった箱を次々と電車に積み込む。彼は、発車寸前になんとかホームに降りるものの、鞄をドアに挟まれ、電車は出発してしまう。サイモンは勤続7年になるが、会社の警備員は、鞄に入れていたために社員証を提示できない彼を見知らぬ他人のように扱う。
そして、サイモンの分身が出現する前に、奇妙な出来事が起こる。彼は向かいの建物に住むハナの部屋を望遠鏡で覗くことが習慣になっているが、その覗きの最中にひとりの男が外壁に立っているのに気づく。その男はなぜかサイモンに向かって手を振ってから、飛び降りて絶命する。
そんな象徴的な死のあとで、サイモンはふたつに分かれる。正反対の性格を持つ分身は、サイモンの業績を横取りし、ハナにも触手を伸ばし、サイモンを呑み込もうとする。だが、おそらくはサイモン自身も以前のサイモンではない。その結果、起こるせめぎ合いが、死や分裂、変容、再生をめぐる象徴的なイメージを通してイニシエーションへと結びついていく。
河合隼雄総編集『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」
アイオアディが『嗤う分身』で描き出しているのも、そんなイニシエーションなき時代のイニシエーションと見ることができる。 |