嗤う分身
The Double


2013年/イギリス/カラー/93分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:)

 

 

イニシエーションのために分身が必要とされる時代

 

[ストーリー] 内気で要領が悪く、存在感の薄い男サイモン。会社の上司にも同僚にもバカにされ、サエない毎日を送っている。コピー係のハナに恋をしているが、まともに話しかけることもできない。そんなある日、期待の新人ジェームズが入社してくる。

 驚くべきことに彼は、サイモンと全く同じ容姿を持つ男だった。何一つサエないサイモンに対し、要領がよくモテ男のジェームズ。容姿は同じでも性格は正反対の2人。サイモンは次第に、ずる賢いジェームズのペースに翻弄され、やがて思いもよらぬ事態へと飲み込まれていく――。

 『サブマリン』(10)で注目を浴びたイギリスの新鋭リチャード・アイオアディが、文豪ドストエフスキーの初期作品「分身(二重人格)」にインスパイアされて作り上げた『嗤う分身』では、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』の造形とデヴィッド・フィンチャーの『ファイト・クラブ』のテーマを組み合わせたような世界が切り拓かれていく。

 しかし、アイオアディの独自の視点を明らかにするために、比較して意味があるのは、むしろ黒沢清の『ドッペルゲンガー』(02)かもしれない。この映画では、医療機器メーカーで車椅子型の人工人体の開発を進めている技術者・早崎の前に、ある日突然、瓜二つの分身が現れ、彼に力を貸すと言い出す。

 やがて早崎はその分身を利用するようになる。彼が研究に集中できなかったのは、上司や会社がプロジェクトや予算などに口を出してくるからだった。すると分身は研究室を勝手に破壊し、解雇された早崎に別の研究室や助手を提供する。分身は汚れ仕事をすべて引き受け、早崎の手足となっていくが――。

 黒沢監督は、『アカルイミライ』の公開前にインタビューしたときに、『ドッペルゲンガー』の内容をこのように予告していた。「これはコメディだから成立した映画なんですけど、ひとつだったものがふたつに割れる。まさにドッペルゲンガー(分身)なんですけど、最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」

 ふたつに分かれることが、決定的な存在の変容に繋がる。それは『嗤う分身』のポイントでもあると思う。そこで、『ドッペルゲンガー』のレビューでそうしたように、ここでジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』のなかにある記述を確認しておいても無駄ではないだろう。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   リチャード・アイオアディ
Richard Ayoade
原案/脚本 アヴィ・コリン
Avi Korine
原作 フョードル・ドストエフスキー
Fyodor Dostoevsky
撮影 エリック・アレクサンダー・ウィルソン
Erik Alexander Wilson
編集 ニック・フェントン、クリス・ディケンズ
Nick Fenton, Chris Dickens
音楽 アンドリュー・ヒューイット
Andrew Hewitt
 
◆キャスト◆
 
サイモン/ジェームズ   ジェシー・アイゼンバーグ
Jesse Eisenberg
ハナ ミア・ワシコウスカ
Mia Wasikowdka
パパドプロス ウォーレス・ショーン
Wallace Shawn
ハリス ノア・テイラー
Noah Taylor
メラニー ヤスミン・ペイジ
Yasmin Paige
キキ キャシー・モリアーティ
Cathy Moriarty
“大佐” ジェームズ・フォックス
James Fox
-
(配給:エスパース・サロウ)
 

無性生殖の場合、単純な生物、つまり細胞は、成長過程の一時点で二つに分裂する。二つの核が形成されるのだ。たった一つの存在から二つの存在が生じるのである。この場合、最初の存在が第二の存在を一つ一つ産出したと言うことはできない。二つの新たな存在は同じ資格で最初の存在の産出物である。そして最初の存在は消滅してしまったのだ。(中略)というのも、最初の存在は、自分が産みだした二つの存在のうちどちらにおいても生き残っていないからである

 あまりにも極端な引用だと思われるかもしれないが、バタイユはこれを人間に当てはめてもいる。

すなわちあなたの身が今ある一つの状態から二つの分身へ完全に分かれるという変化である。しかもこの二重化においてあなたは生き残ることができないのだ。というのも、あなたから出た二人の分身はあなたと本質的に異なっているからである。必然的に、これらの二人の分身のどちらも、今あるあなたと同じ存在にはならないのだ

 アイオアディがこうしたテーマに強い関心を持っていたとしても不思議はない。たとえば、初監督作品『サブマリン』は、15歳の主人公オリバーの以下のようなモノローグから始まる。「大抵の人は自分を唯一無二の“個”と考える。そう思うことで起きて普通に生活できる」。だが、オリバーにとっては普通に生活することが難しいからこそ、そんなことを考える。そして、「人生を生き抜くために空想の世界の自分を思い描く」。そんな彼は、現実と幻想の間を往復することになる。

 さらにこの映画の終盤には、バスタブのなかに沈む自分を、もうひとりの自分が見つめる場面がある。アイオアディは、現実のオリバーと妄想のオリバーを通して、この少年のイニシエーションを描き出しているといえる。

 そんな監督が、“ドッペルゲンガー”をタイトルにするドストエフスキーの作品と出会えば、バタイユの引用にあるテーマも視野に入ってくるのではないか。

 この映画で最初に印象に残るのは、透明人間でもないのに、誰にも見えていないのではないかと疑いたくなるような心理を描き出す巧みな表現だ。会社に向かうサイモンが電車を降りようとすると、配達員らしき男がドアを塞ぎ、ホームにあった箱を次々と電車に積み込む。彼は、発車寸前になんとかホームに降りるものの、鞄をドアに挟まれ、電車は出発してしまう。サイモンは勤続7年になるが、会社の警備員は、鞄に入れていたために社員証を提示できない彼を見知らぬ他人のように扱う。

 そして、サイモンの分身が出現する前に、奇妙な出来事が起こる。彼は向かいの建物に住むハナの部屋を望遠鏡で覗くことが習慣になっているが、その覗きの最中にひとりの男が外壁に立っているのに気づく。その男はなぜかサイモンに向かって手を振ってから、飛び降りて絶命する。

 そんな象徴的な死のあとで、サイモンはふたつに分かれる。正反対の性格を持つ分身は、サイモンの業績を横取りし、ハナにも触手を伸ばし、サイモンを呑み込もうとする。だが、おそらくはサイモン自身も以前のサイモンではない。その結果、起こるせめぎ合いが、死や分裂、変容、再生をめぐる象徴的なイメージを通してイニシエーションへと結びついていく。

 河合隼雄総編集『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった

 アイオアディが『嗤う分身』で描き出しているのも、そんなイニシエーションなき時代のイニシエーションと見ることができる。

《参照/引用文献》
『エロティシズム』ジョルジュ・バタイユ●
酒井健訳(ちくま学芸文庫、2004年)
『講座心理療法第1巻 心理療法とイニシエーション』河合隼雄総編集●
(岩波書店、2000年)

(upload:2014/10/28)
 
 
《関連リンク》
リチャード・アイオアディ 『サブマリン』 レビュー ■
黒沢清 『ドッペルゲンガー』 レビュー ■
黒沢清インタビュー 『アカルイミライ』 ■
ハンナ・ベルイホルム 『ハッチング ―孵化―』 レビュー ■
ベン・ザイトリン 『ハッシュパピー バスタブ島の少女』 レビュー ■
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