一人暮らしのOLミチの会社では、同僚が奇妙な自殺を遂げたのを皮切りに、仲間たちが次々と姿を消していく。インターネットを始めた大学生の亮介は、モニタの向こうに幽霊らしきものを見て、同じ大学でネットを研究する春江に相談を持ちかけるが、次第に彼女の様子がおかしくなる。インターネットがどこかで霊界と繋がり、街は次第に廃墟と化していく。
黒沢清監督の映画は、そこに見えるものがすべてであり、謎が謎のままに終わることも珍しくない。インターネットを題材にしたホラーである新作の『回路』も同様である。なぜネットと霊界が繋がるのか、そもそもこの霊界とはいかなるものなのか、赤いテープで封印された開かずの間とは何か、幽霊がいる空間の壁にはなぜ"help"という文字だけが刻まれているのか。
謎は解き明かされない。しかし確実に境界を曖昧なものにしていく。向こう側とこちら側の境界、触れられるものと触れられるはずのないものの境界、そして生と死の境界を。
生きていることと死者になることに確固とした境界があれば、人は生に執着するに違いない。しかしそこに明確な境界を見出せなければ、異なる考えも生まれる。たとえば春江は、決して悲観主義者ではないが、未来に対してこれといった期待もない。そんな彼女には、死者として存在することも、ひとつの自由であるように思えてくる。
かつて人々は、歴史や伝統、イデオロギーなどが生み出す求心力や境界に支えられていた。しかし現代社会では、自覚もないままにそうした境界を喪失している。黒沢監督は独自の映像表現で、偽りの求心力や自我の境界の崩壊、日常を浸食する死の時空を描き出してきた。そして『回路』では、死との境界すら消し去る力が世界を覆うとき、それでも本能とは違う自らの意思で、ある領域に踏みとどまり、ある姿勢を貫こうとすることの意味を問おうとするのだ。
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