日本でも人気の作家ダグラス・クープランドの新作『Girlfriend in a Coma』では、ヒロインのカレンが18年の眠りから目覚める。彼女は16歳のときにパーティで、バリウムの錠剤と酒を飲んだ後で昏睡状態になっていたのだ。
昏睡による時間の欠落を契機として世界を異化し、覚醒をうながそうとするこの小説では、登場人物たちの会話のなかで、昏睡のことがこんなふうに語られる。昏睡という現象は、ポリエステルやジェット旅客機、マイクロチップと同じように現代的な社会の副産物であり、第二次大戦以前には人は単純に死ぬ他なかった。
黒沢清は、あらゆるところに境界を見いだし、それを突き崩すことによって、人間や世界の在り様、人間と世界の関係を見直してきた。「ニンゲン合格」でその境界を生みだすのは、この現代的な現象である昏睡だ。
主人公の吉井豊は14歳のときに交通事故に遭って昏睡状態に陥り、10年後に長い眠りから目覚める。映画は、現実世界に復帰した豊と彼を取り巻く人々のドラマを淡々と綴っていくかにみえる。しかし、時間の欠落という境界に注目してみるならば、ドラマが常に静かな緊張をはらんでいることがわかる。
豊かはただ眠っていただけなのだから、周囲の人間が年をとり、変貌しているからといって、そう簡単に現実を受け入れることはできない。そんな彼を現実に引き戻すような重力を生みだすのは、周囲の人間であるはずだが、この映画では、境界をめぐる彼らの力関係が逆転し、静かな緊張を生みだすのだ。
豊は同窓会を開いてブランクを埋めようとするが、その帰り道に古本屋の前を通りかかって状況が変わる。14歳から時間が経過していない彼は、店の鍵の番号を記憶していて、彼と親友たちは昔と同じように本を盗みだす。逆に親友の方が境界を越えてきてしまうわけだが、豊はその状況に何の違和感もないことに、密かに戸惑いを覚える。しかし、失われた10年のあいだに離散していた母親や妹までが家に戻り、向こうから境界を越えてくるに及んで、彼もその夢見るような時間のなかに安住を始める。
そしてこの時間の危うさが浮き彫りになるのが、居間のテレビから父親の乗った船が事故にあったニュースが流れだすときだ。救出された父親の顔が画面に映しだされるとき、そこには一家4人がそろい、家族が再生されたかに見える。しかしその父親の口から新興宗教の話が出るとき、現実が一瞬にして剥きだしになり、家族の団欒の光景は死んだ時間のなかに放りだされる。この家族は、各自がその事実に気づきながらも、何事もなかったかのように装い、別々の生活に戻っていく。 |