ゴンサロ・カルサーダ監督の『ルイーサ』の主人公は、ブエノスアイレスの都心のアパートにひとりで暮らす60歳の女性ルイーサだ。彼女は、時間厳守で単調な日課を繰り返している。
腹をすかせた猫のティノに起こされ、7時半にはバスに乗り、勤続30年の“安らぎ霊園”で電話番をする。午後3時半きっかりにその職場を出て、往年のスター女優クリスタル・ゴンサレスの家で家事手伝いをこなし、その後はまっすぐに帰宅する。彼女はまったく感情を表に出すことがなく、洋服も毎日同じ取り合わせだ。
ところがある日、ティノが死に、初めて職場に遅刻し、そしてふたつの仕事を同時に失う。霊園の二代目社長が始めた職場の改革によって、解雇を言い渡される。ゴンサレスは芸能界を引退して田舎で暮らすことに決め、家事手伝いも不要になってしまった。呆然とするルイーサは、家族同然だったティノを埋葬しようとするが、手元に残っているのはわずか20ペソで、埋葬費用の300ペソすら払うことができない。
この映画は、市場主義や経済危機を背景に、どん底からはい上がっていくヒロインの姿を描く作品のように見えるが、もうひとつ重要なテーマが埋め込まれている。それは、「喪に服す」という内面的な作業の意味を掘り下げることだ。
ルイーサは過去に夫と娘をいっしょに亡くしている。その悲劇については具体的なことはなにも語られないが、彼女の生活にはその影響がふたつのかたちで表れている。彼女が機械のように規則正しい生活を送るのは、何も考えないようにするためだ。しかし、そんな彼女は毎晩のように悪夢にうなされる。過去の悲劇や死者に呪縛されているからだ。
この映画は、喪に服すことの意味を掘り下げた他の作品と比較してみると、その魅力が明確になるだろう。
たとえば、トマ・ドゥティエール監督のベルギー映画『心の羽根』では、スモールタウンに暮らす主婦ブランシュが、5歳の息子の事故死という悲劇に見舞われる。そんな彼女は、葬儀を終えても死を受け入れられず、息子が死んだ沼地に入り浸り、彼の幻影と過ごすようになる。
喪に服すことができないブランシュは、現実を見失っていく。だが、沼地に入り浸っているのは彼女だけではなかった。傍目にはバード・ウォッチャーに見える孤独な若者が、自然のなかで実験と称して密かに自分に様々な試練を課している。そんなふたりの出会いが、やがて喪に服すという儀式に繋がっていく。 |