しかし、決まりきった生活に変化が訪れる。それは、マリアがジグソーパズルの才能に目覚めることだけを意味するのではない。注目しなければならないのは料理だ。息子と恋人は勝手にベジタリアンのメニューを取り入れるようになる。夫のフアンも料理に不満をもらし、食事療法を始める。もはや料理も彼女が仕切れる領域ではなくなり、家庭のなかに居場所が失われていく。だからこそ余計にパズルに傾倒するようになる。
このパズルと料理の結びつきは実に効果的だ。この一家はマチスモというものを意識して日常生活を送っているわけではない。ところが、パズルと料理をめぐって家族のあいだに感情的なズレが生じるようになると、彼らの生活に浸透したマチスモが炙り出されてくるのだ。たとえば、マリアからパズルの選手権のことを打ち明けられたフアンが思わず笑い出す場面には、それがよく表われている。ふたりの息子たちは、自活の道やインドへの旅など、自分たちの未来を勝手に決めようとしているのに、マリアの情熱や選択はまともに受け止められることもない。
男性である筆者の目から見ても、マリアがそんな夫に怒りを感じるのは当然である。彼女が家族を捨てて、ロベルトのもとに走ったとしても不思議はない。しかし、スミルノフ監督が強い関心を持っているのは、必ずしもそんな男女の関係の問題ではない。彼女は、マチスモの世界における女性の在り方そのものを掘り下げ、メッセージを発信しているように思える。
マリアのような主婦は、マチスモを基盤とするような社会構造に気づかぬうちに取り込まれている。そんな女性にとってジグソーパズルは、自分を再構築、再発見するメタファーになる。最初に叔母から贈られるパズルがネフェルティティのものであることも興味深い。マリアはこのエジプトの女王の存在に魅了されるように、自分自身に目を向け、自己の感性に目覚めていく。
この映画の冒頭と終盤でマリアは二度祝福されるが、その意味はまったく対照的だ。冒頭で50歳の誕生日を祝福される彼女は、母性愛には満ちているが、突き詰めれば自分の顔を持たない、交換可能な存在である。一方、終盤でパズルの全国大会の優勝者として家族から祝福される彼女は、妻や母という立場に縛られない、独立した揺るぎない世界を持っている。彼女が必要としていたのは、自分の顔、自分の世界、自分の喜びなのだ。 |