この映画には、料理や食事の場面がよく出てくる。積極的な姉は、手料理でDJに攻勢を仕掛ける。DJはそれを無視して町の中華料理屋へ足を運ぶが、そこでウエイトレスをしているのが妹で、ふたりは急接近する。ところが、しばらくするとDJは、今度は姉の手料理を受け入れるようになり、ロマンスの形勢も逆転する。そして、姉と妹は、毎日、町の公園で昼食をともにする習慣があり、このテーブルに姉妹の関係の変化が投影される。
それだけなら珍しいドラマではないが、この映画には、DJが実は魚かもしれないという突飛とも思える設定が盛り込まれ、それが巧みにもうひとつの物語の流れを作りあげていく。姉妹は、日常生活のなかで地元の川で魚を釣り、料理する。都会人のDJはどうやら魚嫌いらしい。そして、姉妹の妹は、川に住む巨大な魚が犬を食ってしまったという話を信じていたりする。そんな断片的なエピソードと料理を通した三者の関係が絡み合うと、男性と女性原理をめぐる食うか食われるかの象徴的なドラマの流れが浮かび上がってくる。対照的な姉妹は、それぞれにDJに食われかけながら、最終的には力を合わせることによって妄想を拭い去り、現実に目覚めるのだ。
T教授があげたもう1本の映画『Shame』からは、『ミュリエルの結婚』とはまったく対照的なドラマが見えてくるという。ヒロインは、知性や攻撃性も要求される仕事を堂々とこなし、バイクを乗り回すばかりか自分で修理もし、男たちの嫌がらせには敢然と立ち向かう。それゆえに内陸部のスモールタウンのなかで、もっと若い娘にとって理想のモデルとなる。しかし映画の最後に悲劇が待ち受けている。モデルを見出した若い娘が殺されてしまうのだ。
この若い娘が具体的にどんなふうに殺されるのかはわからないが、教授によれば、この数年のあいだにフェミニストたちが、この映画から浮かび上がるようなスモールタウンの体質を表現する言葉として"レイプ・カルチャー"という言葉を使うようになり、注目を集めているという。男たちがレイプを考えることが許容される土壌があるというのだ。かと思えば、この奥地のマチズモ(男性優位主義)の世界をまったく対照的な観点から描く『クロコダイル・ダンディ』のような映画もある。教授は、オーストラリアは一般的には非常にフレンドリーな国として見られているし、ふたつのタイプの映画のうち、どちらが真実に近いのか簡単に答を出すことはできないという。
この女性問題は、現代オーストラリアの男女の関係に様々な波紋を投げかけている。冒頭で『ルイーズとケリー』では、オーストラリアの著名なフェミニスト、ヘレン・ガーナーが脚本を手がけていると書いたが、教授によると、彼女が最近発表した『The
First Stone』という本が物議を醸しているという。著者ガーナーは本書のなかで、メルボルン大学で起こったセクハラ事件を取り上げ、男性の立場を擁護し、新しい世代のフェミニストたちが過敏になるあまり、男性を犠牲者に仕立てていると主張しているのだ。
この問題について教授は、最近オーストラリアで話題になっている『A Difficult Woman』というテレビ・ドラマの影響をあげる。このドラマのヒロインは、日常のなかで男性に搾取されているように感じ、視聴者は彼女に同情するようになる。しかし実際には彼女が抱える問題のすべてが男性の排他主義が原因になっているわけではない。このドラマには伏線として性格が歪んだフェミニストが登場し、男性を攻撃する過剰なキャンペーンを展開して主人公を含めた女性たちに影響を及ぼしているというのだ。
というようにオーストラリアの女性問題にはいろいろ根深いものがあるが、『女と女と井戸の中』は、そんな背景を踏まえてみるといっそう興味深く思える。この映画には、古い価値観に縛られた女性とまったくモデルを見出すことができずに根無し草となった女性という対照的なヒロインが登場し、ふたりの確執が幻想的なドラマを紡ぎだしていく。
中年の女ヘスターは、殺伐とした荒野のなかにある農場で父親とふたりで暮らしている。彼女は家政婦として若い娘キャスリンを雇い、この娘の奔放さに惹かれていく。ヘスターがどんな世界を生きてきたのかは父親の姿から察することができる。彼は、鍵束を首にさげて世界を仕切っている。そして、キャスリンが現れると品定めするように痩せた体を見つめ、彼女が男を喜ばせる役にすらたたない能無しであることを言外に匂わせるのだ。
しかしこの父親は間もなくこの世を去り、鍵束を受け継いだヘスターは、娘に引きずられるように消費の快楽に溺れ、農場の大半を売り払い、その片隅に残る小屋で暮らしはじめる。そんなある日、キャスリンが夜道で男を轢いてしまい、ヘスターは遺体を小屋の前にある井戸に放り込む。ところが、小屋に隠してあった全財産が消えてしまい、轢いた男が泥棒だったのかどうかをめぐってふたりのあいだに疑惑と確執が生まれ、現実と幻想が錯綜していく。これまでの生活ゆえに無意識のうちに相手を所有しようとするヘスターと拠り所を求めながらも所有されることを拒むキャスリンの感情が激しくせめぎあうのだ。
この確執の果てにヘスターはあらゆるものを失うことになるが、そのとき映画の冒頭から映像(=彼女の世界)を覆っていたブルーのベールが消え去る。それは彼女が所有の呪縛から解き放たれ、初めて世界を自分の肌で感じる瞬間を意味しているのだ。 |