映画に見るオーストラリアの女性問題
――レイプ・カルチャーと揺れるフェミニズム



Shame――――――――――――――- 1987年/オーストラリア/カラー/94分
ミュリエルの結婚 / Muriel's Wedding―― 1994年/オーストラリア/カラー/105分
ラブ・セレナーデ / Love Serenade――― 1996年/オーストラリア/カラー/100分
女と女と井戸の中/The Well―――――― 1997年/オーストラリア/カラー/102分
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(初出:「CD Journal」1998年12月号、1999年1月号、加筆)


 

 シドニーに住んでいる大学生のメール・フレンドについては、<デッド・ハートとオーストラリア人のアイデンティティ>で触れているが、そのK君とメールのやりとりをしているうちに、彼の父親がオーストラリア映画に関する講義などもしている大学教授であることを知った。そこでK君に、教授に映画について何か質問することができるか尋ねてみると、彼はすぐに父親に確認をとり、T教授のメール・アドレスを教えてくれた。

 筆者がまず尋ねたいと思ったのは、オーストラリア映画から見えてくる女性問題のことだった。ちょうどこのテーマにふさわしい『女と女と井戸の中』が正月映画として公開されることもあり、この映画も含めて筆者の個人的な意見を彼に送ってみることにした。

 日本ではあまり知られていないようだが、オーストラリアでは父権制の伝統が根強く、欧米に比べて女性の地位が非常に低く見られてきた。この風潮は、性差別禁止法や雇用機会均等法などの成立、施行によって制度的にはだいぶ改善されてきている。しかし、長年にわたって否定的なイメージを植え付けられてきた女性たちが、日常生活のなかで、これまでとは違う新しいアイデンティティの拠り所となる身近なモデルもなく、精神的に自立していくことは容易なことではないはずだ。

 オーストラリアの女性監督たちの作品には、興味深い共通点がある。ジェーン・カンピオンの初監督作品『ルイーズとケリー』では、姉妹のように似ていたふたりの少女が、9ヶ月のあいだに友情が壊れ、優等生とパンクというまったく違う女子高生へと変貌する姿が描かれる(カンピオンはニュージーランド出身だが、オーストラリア映画界で頭角を現し、また、この映画のシナリオを書いているのは、オーストラリアの有名なジャーナリスト/フェミニストのヘレン・ガーナーである)。続く『スウィーティー』では、極端に横暴な姉と自閉症的な妹の憎しみに満ちた確執が描かれる。シャーリー・バレットの初監督作品『ラブ・セレナーデ』では、田舎町に越してきた元人気DJをめぐって、妄想癖のある強引な姉と異様に臆病な妹が奇妙な恋愛バトルを繰り広げる。

 こうした見事に対照的な少女や女たちの確執のドラマからは、特有の抑圧や戸惑いが浮かび上がってくるのだが、そこにはいま書いたような現実が反映されている。つまり、理想的なモデルや自分の居場所を見出すことができずに孤立する女性の心理を突き詰めたところに見えてくるのが、こうした対極にあるヒロインたちの姿であり、女性監督たちはその確執を通して現代女性の内面にある抑圧や戸惑いを描きだしているということだ。そして、女性監督サマンサ・ラングの初監督作品『女と女と井戸の中』もまた対照的なふたりの女の確執を描く作品なのである。

 そんな筆者の意見に対してT教授から丁寧な答が返ってきた。彼は、確かに女性問題はオーストラリア映画の主要なテーマになっているという。そして彼のメールには、このテーマを扱った映画やその背景のことが書かれていたのだが、それ以前にまずびっくりしたことがあった。筆者は彼に送った意見のなかで、昔読んだミリアム・ディクソンの「オーストラリアの女性哀史」という本にも触れたのだが、T教授によれば、この著者は彼と同じ大学で長年教鞭をとっていて、筆者の話を聞いたら彼女も喜ぶだろうと言って、連絡先まで教えてくれたのだ。本当にインターネットではどこで誰と知り合えるかわからない魅力がある。

 T教授はまず、女性が新しいアイデンティティを確立するためのモデルを見出そうとしてぶつかる壁や問題点を扱った代表作として『ミュリエルの結婚』と『Shame』の2本の映画を上げる。

 彼は、『ミュリエルの結婚』について、こう説明する。オーストラリアの田舎町ではこの映画に描かれるように、若い女性が選択できるライフ・スタイルや将来が非常に限られ、結婚することが最大の目標であるという考え方が支配的になっている。ミュリエルはそれが自分に相応しいものではないのに、結婚しか頭にない女たちを自分のモデルにし、何とか適合しようとする。しかし、偽装結婚と母親の死を経て本当の自分に目覚め、旧弊な家族や自分にそぐわないモデルを捨て去ることで自由を獲得していく。

 確かに教授の言うとおりで、筆者はメールで『ミュリエルの結婚』に言及するのを忘れていたが、この映画は、まさにロールモデルを見出すことができない女性というテーマを扱っている。ミュリエルの家庭は、完全に父権制に支配されている。彼女は、両親の関係を通して悲惨な結婚生活を目の当たりにしているのに、それでも孤立することを恐れ、結婚しか頭にない周囲の女たちに同化しようとする。この映画は、そんなヒロインが、紆余曲折を経て、半身不随になっても自尊心を失わないロンダというロールモデルを見出すまでの物語を描いているのだ。

 そんなことを踏まえてみると、『ラブ・セレナーデ』のドラマなどはいっそう興味深く思えるはずである。寂れた田舎町で退屈な日々を送る姉妹。姉のヴィッキーアンは、ミュリエルと同じように強烈な結婚願望が、妄想の域にまで達しているのに対して、妹はそんな生き方を拒絶しているのだが、理想のモデルを見出せず、自分の殻に閉じこもっている。この映画はそんな姉妹とDJの三角関係を、料理や食べるという行為を通して象徴的に描いているのだ。


―ミュリエルの結婚―

◆スタッフ◆

監督/脚本
P・J・ホーガン
P.J. Hogan
撮影 マーティン・マクグラス
Martin McGrath
編集 ジル・ビルコック
Jill Bilcock
音楽 ピーター・ベスト
Peter Best

◆キャスト◆

ミュリエル
トニ・コレット
Toni Collette
ロンダ レイチェル・グリフィス
Rachel Griffiths
ビル ビル・ハンター
Bill Hunter
タニア ソフィー・リー
Sophie Lee
シェリル ロザリンド・ハモンド
Rosalind Hammond


―ラブ・セレナーデ―

◆スタッフ◆

監督/脚本
シャーリー・バレット
Shirley Barrett
製作 ジェーン・チャップマン
Jan Chapman
撮影 マンディ・ウォーカー
Mandy Walker
編集 デニス・ハラジス
Denise Haratzis

◆キャスト◆

ディミティ
ミランダ・オットー
Miranda Otto
ヴィッキーアン レベッカ・フリス
Rebecca Frith
ケン・シェリー ジョージ・シェブソフ
George Shevtsov
アルバート・リー ジョン・アランス
John Alansu


―Shame―

◆スタッフ◆

監督
Steve Jodrell
脚本 Beverley Blankenship/ Michael Brindley
撮影 Joseph Pickering
編集 Kerry Regan
音楽 Mario Millo

◆キャスト◆

Asta Cadell
Deborra-Lee Furness
Tim Curtis Tony Barry
Lizzie Curtis Simone Buchanan
Tinna Farrel Gilian Jones


―女と女と井戸の中―

※スタッフ、キャストは
「女と女と井戸の中」レビュー
を参照のこと
 
 
 
 


 この映画には、料理や食事の場面がよく出てくる。積極的な姉は、手料理でDJに攻勢を仕掛ける。DJはそれを無視して町の中華料理屋へ足を運ぶが、そこでウエイトレスをしているのが妹で、ふたりは急接近する。ところが、しばらくするとDJは、今度は姉の手料理を受け入れるようになり、ロマンスの形勢も逆転する。そして、姉と妹は、毎日、町の公園で昼食をともにする習慣があり、このテーブルに姉妹の関係の変化が投影される。

 それだけなら珍しいドラマではないが、この映画には、DJが実は魚かもしれないという突飛とも思える設定が盛り込まれ、それが巧みにもうひとつの物語の流れを作りあげていく。姉妹は、日常生活のなかで地元の川で魚を釣り、料理する。都会人のDJはどうやら魚嫌いらしい。そして、姉妹の妹は、川に住む巨大な魚が犬を食ってしまったという話を信じていたりする。そんな断片的なエピソードと料理を通した三者の関係が絡み合うと、男性と女性原理をめぐる食うか食われるかの象徴的なドラマの流れが浮かび上がってくる。対照的な姉妹は、それぞれにDJに食われかけながら、最終的には力を合わせることによって妄想を拭い去り、現実に目覚めるのだ。

 T教授があげたもう1本の映画『Shame』からは、『ミュリエルの結婚』とはまったく対照的なドラマが見えてくるという。ヒロインは、知性や攻撃性も要求される仕事を堂々とこなし、バイクを乗り回すばかりか自分で修理もし、男たちの嫌がらせには敢然と立ち向かう。それゆえに内陸部のスモールタウンのなかで、もっと若い娘にとって理想のモデルとなる。しかし映画の最後に悲劇が待ち受けている。モデルを見出した若い娘が殺されてしまうのだ。

 この若い娘が具体的にどんなふうに殺されるのかはわからないが、教授によれば、この数年のあいだにフェミニストたちが、この映画から浮かび上がるようなスモールタウンの体質を表現する言葉として"レイプ・カルチャー"という言葉を使うようになり、注目を集めているという。男たちがレイプを考えることが許容される土壌があるというのだ。かと思えば、この奥地のマチズモ(男性優位主義)の世界をまったく対照的な観点から描く『クロコダイル・ダンディ』のような映画もある。教授は、オーストラリアは一般的には非常にフレンドリーな国として見られているし、ふたつのタイプの映画のうち、どちらが真実に近いのか簡単に答を出すことはできないという。

 この女性問題は、現代オーストラリアの男女の関係に様々な波紋を投げかけている。冒頭で『ルイーズとケリー』では、オーストラリアの著名なフェミニスト、ヘレン・ガーナーが脚本を手がけていると書いたが、教授によると、彼女が最近発表した『The First Stone』という本が物議を醸しているという。著者ガーナーは本書のなかで、メルボルン大学で起こったセクハラ事件を取り上げ、男性の立場を擁護し、新しい世代のフェミニストたちが過敏になるあまり、男性を犠牲者に仕立てていると主張しているのだ。

 この問題について教授は、最近オーストラリアで話題になっている『A Difficult Woman』というテレビ・ドラマの影響をあげる。このドラマのヒロインは、日常のなかで男性に搾取されているように感じ、視聴者は彼女に同情するようになる。しかし実際には彼女が抱える問題のすべてが男性の排他主義が原因になっているわけではない。このドラマには伏線として性格が歪んだフェミニストが登場し、男性を攻撃する過剰なキャンペーンを展開して主人公を含めた女性たちに影響を及ぼしているというのだ。

 というようにオーストラリアの女性問題にはいろいろ根深いものがあるが、『女と女と井戸の中』は、そんな背景を踏まえてみるといっそう興味深く思える。この映画には、古い価値観に縛られた女性とまったくモデルを見出すことができずに根無し草となった女性という対照的なヒロインが登場し、ふたりの確執が幻想的なドラマを紡ぎだしていく。

 中年の女ヘスターは、殺伐とした荒野のなかにある農場で父親とふたりで暮らしている。彼女は家政婦として若い娘キャスリンを雇い、この娘の奔放さに惹かれていく。ヘスターがどんな世界を生きてきたのかは父親の姿から察することができる。彼は、鍵束を首にさげて世界を仕切っている。そして、キャスリンが現れると品定めするように痩せた体を見つめ、彼女が男を喜ばせる役にすらたたない能無しであることを言外に匂わせるのだ。

 しかしこの父親は間もなくこの世を去り、鍵束を受け継いだヘスターは、娘に引きずられるように消費の快楽に溺れ、農場の大半を売り払い、その片隅に残る小屋で暮らしはじめる。そんなある日、キャスリンが夜道で男を轢いてしまい、ヘスターは遺体を小屋の前にある井戸に放り込む。ところが、小屋に隠してあった全財産が消えてしまい、轢いた男が泥棒だったのかどうかをめぐってふたりのあいだに疑惑と確執が生まれ、現実と幻想が錯綜していく。これまでの生活ゆえに無意識のうちに相手を所有しようとするヘスターと拠り所を求めながらも所有されることを拒むキャスリンの感情が激しくせめぎあうのだ。

 この確執の果てにヘスターはあらゆるものを失うことになるが、そのとき映画の冒頭から映像(=彼女の世界)を覆っていたブルーのベールが消え去る。それは彼女が所有の呪縛から解き放たれ、初めて世界を自分の肌で感じる瞬間を意味しているのだ。


(upload:2001/09/06)
 
 
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