オーストラリア映画界はこの数年、次々と個性的な作品を送り出し、注目を集めている。そんな新しいオーストラリア映画で印象に残るもののひとつに、女性監督たちの視点がある。彼女たちの原点となる作品にはある種の共通点があるように思う。
たとえばジェーン・カンピオンの初監督作品「ルイーズとケリー」では、姉妹のように似ていたふたりの少女が、
中学を卒業してから九ヶ月のあいだに友情が壊れ、優等生とパンクというまったく違う女子高生へと変貌する姿が描かれる。続く「スウィーティー」では、極端に横暴な姉と自閉症的な妹の憎しみに満ちた確執が描かれる。
シャーリー・バレットの初監督作品「ラブ・セレナーデ」では、田舎町に越してきた元人気DJをめぐって妄想癖のある強引な姉と異様に臆病な妹が奇妙な闘いを繰り広げる。
こうした見事に対照的な少女や女たちの確執のドラマからは、特有の抑圧や戸惑いが浮かび上がってくるが、それはオーストラリア社会と無縁ではないだろう。
オーストラリアでは父権制の伝統が根強く、欧米に比べて長いあいだ女性の地位が非常に低く見られてきた。この風潮は、80年代半ばに相次いで成立、施行されることになった性差別禁止法や雇用機会均等法などによって制度的にはだいぶ改善されてきている。
しかし、否定的なイメージを植え付けられてきた女性たちが、
日常生活のなかでアイデンティティの拠り所となる身近なモデルもなく、精神的に自立していくことは必ずしも容易なことではない。そして、そんなふうに自分の居場所を見出すことができずに孤立する女性の心理を突き詰めたところに見えてくるのが、こうした対極にあるヒロインたちの姿といえる。女性監督たちはその確執を通して、現代女性の内面にある抑圧や戸惑いを描きだそうとするのだ。
女性監督サマンサ・ラングの初監督作品「女と女と井戸の中」にも、ふたりの女たちの確執が描かれる。但し、彼女たちは同世代ではなく、それぞれに新旧の女性の立場を反映している。中年の女ヘスターは、殺伐とした荒野のなかにある農場で父親とふたりで暮らしている。彼女は家政婦として若い娘キャスリンを雇い、
この娘の奔放さに惹かれていく。
ヘスターがどんな世界を生きてきたのかは彼女の父親の姿から察することができる。彼は、鍵束を首にさげて世界を仕切っている。そして、キャスリンが現れると品定めするように痩せた体を見つめ、彼女が男を喜ばせる役にすらたたない能無しであることを言外に匂わせるのだ。
しかしこの父親は間もなくこの世を去り、鍵束を受け継いだヘスターは、娘に引きずられるように消費の快楽に溺れ、農場の大半を売り払い、その片隅に残る小屋で暮らしはじめる。そんなある日、キャスリンが夜道で男を轢いてしまい、ヘスターは遺体を小屋の前にある井戸に放り込む。
ところが、小屋に隠してあった全財産が消えてしまい、轢いた男が泥棒だったのかどうかをめぐってふたりのあいだに疑惑と確執が生まれ、現実と幻想が錯綜していく。
これまで父権性社会の牢獄に押し込まれてきたヘスターは、無意識のうちに相手を所有しようとする。逆に父権性社会の制約からは自由ではあるが、拠り所となるモデルを見出せずに転々と旅をつづけてきたキャスリンは、無意識に所有されることを拒む。 |