『オーストラリア』は、バズ・ラーマン監督が母国を題材にして作り上げた2時間45分の大作だ。そのオーストラリアに対する筆者の関心は、大きくふたつに分けることができる。
ひとつは女性問題だ。オーストラリアでは父権制の伝統が根強く、欧米に比べて女性の地位が非常に低く見られてきた。否定的なイメージを植え付けられてきた女性たちが、これまでとは違う新しいアイデンティティの拠り所となるロールモデルもなく、精神的に自立していくことは容易なことではなかった。
そしてもうひとつはデッド・ハート(あるいはアウトバック)だ。オーストラリアの奥地を意味するこの言葉には、深い意味がある。以前、ネットで知り合ったシドニーの大学生は、それをこのように説明してくれた。
「デッド・ハートは、大陸中央部の苛酷な砂漠地帯を意味する。先住民族のアボリジニとひと握りの勇敢な白人を除けば誰もそこには住まないし、めったに足を踏み入れることもない。アボリジニはその砂漠にたくさんの聖なる場所があると信じている。しばらく前に、有名なエアーズ・ロックに遠足に行った子供たちが激しい雷雨に襲われた。 そんなことはめったにないことで、多くのオーストラリア人は子供たちが聖なる場所に踏み込んでしまったのだと思った。デッド・ハートは、映画、音楽などあらゆる芸術に影響を及ぼし、オーストラリア人の精神の一部になっているんだ」
第二次大戦の戦火が迫るオーストラリアを舞台にしたこの『オーストラリア』には、そんなふたつのテーマが盛り込まれている。
牧場の売却を進める夫に会うため、ロンドンからオーストラリアにやって来た貴族のサラ。だがその夫は殺害され、牧場が乗っ取られようとしていた。彼女は、カウボーイのドローヴァーやアボリジニとの混血の少年ナラと、1500頭の牛を港に運び、軍に売って牧場を立て直そうとする。
粗野で無骨なカウボーイ、ドローヴァーは、父権制の伝統を表している。不正を働く男たちに対して勇敢に鞭をふるうサラは、新しい女性像を表している。そして、白人とアボリジニの混血であるがゆえに差別を受ける少年ナラ。デッド・ハートに生きるアボリジニの呪術師キング・ジョージと精神的に繋がっているこの少年には、特別な力が宿っている。
一匹狼のドローヴァーは、サラやナラとの交流のなかで変化していく。彼らが家族のような関係を築いていくことは、ふたつの問題を乗り越えることを意味する。この映画は、往年のハリウッド映画を意識しているので、人物や物語は図式的になりがちだが、ラーマンが描きたいことはよくわかる。現実の問題はこれほど甘くないが、リアリティよりも作り物としての映画にこだわる彼のスタイルを踏まえるなら、かなり現実に踏み込んでいると見るべきなのだろう。 |