「“デッド・ハート”は、大陸中央部の過酷な砂漠地帯を意味する。先住民族のアボリジニとひと握りの勇敢な白人を除けば誰もそこには住まないし、めったに足を踏み入れることもない。アボリジニはその砂漠にたくさんの聖なる場所があると信じている。しばらく前に、有名なエアーズ・ロックに遠足に行った子供たちが激しい雷雨に襲われた。そんなことはめったにないことで、多くのオーストラリア人は子供たちが聖なる場所に踏み込んでしまったのだと思った。デッド・ハートは、映画、音楽などあらゆる芸術に影響を及ぼし、オーストラリア人の精神の一部になっているんだ」
この映画の主人公たちは、そのデッド・ハートを旅し、その途中でアボリジニにも出会う。彼女たちは、先住民ではないが、白人社会に完全に受け入れられているわけでもない。つまり、オーストラリアの原風景のなかを、セクシャル・マイノリティの彼女たちが旅することによって、そのアイデンティティの探求がより際立つことになる。
さらに、そこに女性問題というもうひとつの大きな要素が絡んでくる。オーストラリアでは父権制の伝統が根強く、欧米に比べて女性の地位が非常に低く見られてきた。この風潮は、性差別禁止法や雇用機会均等法などの成立、施行によって制度的にはだいぶ改善されてきている。しかし、長年にわたって否定的なイメージを植え付けられてきた女性たちが、日常生活のなかで、これまでとは違う新しいアイデンティティの拠り所となるロールモデルを見出し、精神的に自立していくことはなかなか容易ではない。
この映画でも、鉱山の町に暮らす男たちにはホモソーシャルな連帯があり、それはミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛嫌悪)と表裏一体になっている。だから当然、主人公たちは偏見にさらされ、辛い思いをすることにもなる。ヘテロの女性ですらロールモデルを見出すのに苦労する世界だけに、彼女たちは、まさにそれぞれに自分たちで道を切り開くしかない。
ステファン・エリオットは、ドラッグ・クイーンとデッド・ハートと女性問題を巧みに結びつけ、ユニークな視点からオーストラリアという世界を浮き彫りにしている。 |