たとえば、超大物大臣ホセ・ロペス・レガのエピソードは、この映画の世界と深く関わっている。ホセ・ロペス・レガは、国家元首がカンポラ、ラスティリ、ベロン、未亡人イサベルと移り変わっても、政権の中枢に居座りつづけた。そして、この影の権力者は、残忍な極右民兵組織トリプルA(AAA:アルゼンチン反共同盟)を秘密裏に創立した。そのトリプルAがやったことは、以下のように描かれている。
「国内の通りという通りで反体制派の一掃を開始し、始末した遺体は道路沿いの排水溝、とりわけエセイサ国際空港に続く幹線道路の脇に放られた」
この映画のゴメスは、そのトリプルAにリクルートされて、自由の身となる。ゴメスが解放されたことを知ったベンハミンとイレーネは、陳情に訪れた建物のエレベーターでゴメスに再会する。ふたりの後から乗り込んできた彼が、背中を向けておもむろに銃を取り出し、彼らを威圧する場面は強烈な印象を残すことだろう。
だが、描かれないことのインパクトはそれだけではない。なぜなら、これはまだ最悪の状況ではないからだ。この映画に描かれる70年代の物語は、1976年3月に勃発する軍事クーデターの直前で終わっている。それから事態はさらに悪化することになる。『天啓を受けた者ども』には、それが以下のように表現されている。
「軍事評議会によって牛耳られた首脳陣が下す命令は、身震いするほど傲慢なものだった。残虐行為を繰り返す者たちの猛威を前に、無数の善良な市民が屈服するか、国外に(運よく空港で捕まらなければ)脱出するしかなく、何千もの家族が喪に服すようになった。やがて目撃者のあるなしにかかわらず、身内や友人のだれかが突然姿を消したという経験のないアルゼンチン人はひとりもいなくなった。人身保護令状は死文と化し、ゲリラ側も軍側もためらうことなく銃撃戦を繰り返す。悪の解決にはさらに残虐な暴力をもって対処するしかなく、社会全体が気力を失い、茫然自失となった」
そういう意味でこの映画の設定は絶妙だといえる。なぜなら、クーデター以後まで物語を引き延ばしていれば、ベンハミンの部下のパブロが何者かに殺害されるというような悲劇は、騒乱のなかに埋もれてしまっただろう。しかし一方で、この映画の観客は、ベンハミンを襲った悲劇を、間違いなくクーデター以後と結びつけて観る。だからこそ、描かれないことが強烈なインパクトを生み出す。
しかし、この映画は、そんなインパクトだけで物語を終わらせない。ベンハミンが小説を完成させるために、かつての銀行員リカルドを探し出し、恐ろしい復讐を目の当たりにするとき、国民の悲劇は個人の次元に置き換えられる(この復讐は、直前の引用のなかの「悪の解決にはさらに残虐な暴力をもって対処するしかなく」という記述の究極を示しているといえるかもしれない)。
そして小説を書く意味が明らかになる。リカルドの復讐と同じように、ベンハミンもまた時間の檻に閉じ込められ、湧き上がる感情を表に出せずにいた。彼は、過去の呪縛を解き、今も変わらない想いと向き合うために、小説を書いていたのだ。 |