ウィンターボトムのスタイルを踏まえるなら、そのような場面では、人物の心の揺れを単純化してしまうような音楽も、孤独だけが際立ってしまうような音楽も避けなければならない。しかし、ナイマンの音楽はどちらでもない。ピアノや弦楽器と管楽器のアンサンブルが人物に寄り添い、彼らを包み込んでいく。そして私たちも、音楽に誘われるように彼らを見つめ、その心の揺れを感じ取っている。
一方、『いとしきエブリデイ』の映像と音楽の関係には、『ひかりのまち』とは異なるポイントをあげることができる。5年にわたる物語には繰り返されるエピソードがあるが、それと音楽は無関係ではない。
繰り返しといえばもちろん刑務所での面会だが、見逃せないのは、面会を終えたイアンが監房に戻り、ベッドに横たわるところまでが映し出されることだ。ウィンターボトムがひとりになったイアンを強く意識していることは音楽で察せられる。ベッドでの彼の表情をとらえるあたりからしばしばナイマンの音楽が流れ出すからだ。
イアンは感情を面には出さないが、もろもろの感情が湧き出してくるのはひとりになったときであり、私たちは彼に寄り添う音楽に導かれるように、彼の内面に去来するものを想像している。さらに音楽は、ノーフォークの田園風景や母子のドラマなど、次に続く映像と閉ざされた監房の世界を結ぶことで、内と外の隔たりを際立たせる役割も果たす。
しかし、繰り返されるのは面会だけではない。カレンと子供たちは映画のなかで三度、海に行く。それらのエピソードは、前後の関係から異なる空気を漂わせる。一度目は、子供たちがそろって父親に面会したあとにつづくもので、海には母子だけで行く。二度目は、イアンが少量のハシシを刑務所内に持ち込んだあとのことで、父親の代役を務めるエディが子供たちの遊び相手になる。そして最後は、イアンの出所やカレンの告白を経たあとに、家族6人で訪れる。
ウィンターボトムは、こうした海を背景にしたドラマでも、物語や演出で錯綜する複雑な感情を単純化してしまうのではなく、ナイマンの音楽を通して家族に寄り添い、私たちに彼らの内面を想像させる。そして、直接的には描かれないものや見えないものへの想像が積み重なっていくとき、この映画の世界は大きく広がっている。 |