中央と地方の距離が生み出す現実と幻想と痛み
――『SWEET SIXTEEN』と『青の稲妻』をめぐって


SWEET SIXTEEN/SWEET SIXTEEN―― 2002年/イギリス=ドイツ=スペイン/カラー/106分/ヴィスタ/ドルビーSRD
青の稲妻/任逍遥/Unknown Pleasures―― 2002年/中国=日本=韓国=フランス/カラー/112分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:「Cut」2003年1月号、映画の境界線17、若干の加筆)

 

 

 15歳のリアムとその相棒ピンボールを主人公にしたケン・ローチのイギリス映画『SWEET SIXTEEN』と19歳のシャオジイとビンビンのコンビを主人公にしたジャ・ジャンクーの中国映画『青の稲妻』。この2作品は、どちらも厳しい現実のなかで出口を求めて犯罪に走る若者たちを描く青春映画であるだけでなく、主人公を取り巻く社会や歴史的な背景に際立った共通点がある。

 イギリスでは80年代にサッチャー政権によってアメリカ型の市場主義が導入され、競争意識が高まり、消費社会が拡大する一方で、弱者が切り捨てられ、貧富の差が広がった。中国では80年代にケ小平によって改革開放路線が打ち出され、市場経済の導入によって、集団としての人民の理想は揺らぎ、個人の意識が芽生え、生き残るための競争を繰り広げるようになった。2本の映画の主人公たちは、そんな政策転換によって急激な変化を遂げていく社会のなかで育ってきた。

 しかし、彼らが生きている世界は、急激な変化の“中心”ではない。『SWEET SIXTEEN』の舞台は、ロンドンではなく、スコットランドのグラスゴーやグリーノックであり、『青の稲妻』の舞台は、北京や上海ではなく、山西省の大同という地方都市だ。ふたりの監督がその舞台にこだわっていることは、キャスティングにも伺える。ローチがリアム役に起用したのは、グリーノックで育ったサッカー選手であり、『青の稲妻』の主人公は、ジャ・ジャンクーが大同のバーや学生食堂でスカウトした若者たちだ。しかしどちらも、地方都市をリアルに描こうとするだけの映画ではない。ふたりの監督は、中央と地方との距離を意識し、そこから独自のドラマを紡ぎだそうとする。

 『SWEET SIXTEEN』のリアムは、服役中の母親が出所したら、未婚の母である姉や相棒のピンボールと新たな生活を始めることを夢みている。しかし彼には、煙草を売る以外に仕事がない。ローチが舞台に選んだグリーノックは、造船業が下火になったあと、80年代にエレクトロニクス産業が誘致され、新たな発展を遂げるかに見えた。だが、いまではその新しい産業でも大量解雇が行われ、他の産業でも閉鎖される工場が目立ち、産業の空洞化、人口の減少が深刻になっている。

 そこでリアムはドラッグで金を作ろうとするのだが、このドラッグをめぐるドラマには深い意味が込められている。注目したいのはナイフだ。ドラッグをさばくことにかけてはピンボールの方が詳しい。死んだ父親がドラッグを扱っていたからだ。そんな彼は、リアムに護身用のナイフを渡そうとする。リアムは元締めのビッグ・ジェイに気に入られ、度胸試しをされたあとで、仲間の証としてナイフを贈られる。このナイフは、裏のビジネスを象徴している。ところがリアムは、これまでの売人とはまったく違う方法でドラッグをさばきだす。

 ピザ屋を隠れ蓑に使い、宅配のピザとともにドラッグをさばくのだ。人目につかない場所でストリートの連中を相手にする場合は危険がともなうが、宅配を利用すれば一般家庭に客層を広げていくことができる。リアムが、一日5、6ポンドの利益のために汗水たらして働くピザ屋の従業員を買収するとき、彼はこれまでとは違うタイプの売人になっている。そればかりかパソコンを使って、顧客の管理まで始める。するとビッグ・ジェイは、金のなる木を見つけたかのように、彼のピザ屋に出資するようになる。ふたりの関係は、元締めと売人から、資本家と優れた起業家へと変貌するのだ。


―SWEET SIXTEEN―

※スタッフ、キャストは
『SWEET SIXTEEN』レビューを参照のこと


―青の稲妻―

 Ren xiao yao
(2002) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本   ジャ・ジャンクー
Jia Zhang Ke
撮影 ユー・リクウァイ
Yu Lik-wai
編集 チャウ・キョン
Chow Keung
主題歌 リッチー・レン「任逍遥」
Richie Ren

◆キャスト◆

チャオチャオ   チャオ・タオ
Zhao Tao
ビンビン チャオ・ウェイウェイ
Zhao Wei Wei
シャオジィ ウー・チョン
Wu Qiong
チャオサン リー・チュウビン
Li Zhu Bin
ユェンユェン チョウ・チンフォン
Zhou Qing Feng
ウー ワン・ホンウェイ
Wang Hongwei
(配給:ビターズ・エンド、オフィス北野)
 
 


 これまでビッグ・ジェイが仕切ってきたのは、地方都市に根を下ろした裏のビジネスだった。ところがリアムは、かつてサッチャー政権が強く奨励したような企業の合理化や個人の自助努力を実践し、その裏のビジネスを限りなく表に近いものに変える。もちろん本人は夢を叶えたい一心でやっているだけなのだが、それが、産業が空洞化した地域に、危険な産業を起こすことに繋がっていく。サッチャリズム以後を生きてきたリアムのなかには、純粋さとサバイバルするための知恵がバランスを欠いた状態で同居し、それが彼を引き裂こうとするのだ。

 一方『青の稲妻』では、この中央と地方の距離がさらに際立つ。山西省第2の都市大同にも確かに市場経済の波は押し寄せてはいるものの、変化は緩慢であり、地方色と奇妙に入り混じっている。この映画でそれを象徴しているのが、実際に大同で売られているという「モンゴル王酒」のキャンペーンだろう。広場に用意された粗末な舞台では、ウィッグと蝶が描かれた衣装のキャンペーン・ガールが歌にあわせてダンスを踊り、「当たり」の酒瓶を購入すれば1ドル札が出てくる仕掛けだ。ところが、老人が当たりのドル札を銀行で両替しようとすると、「中国銀行」でなければだめだと断られる。すると老人はここも「中国の銀行」だろうと文句を言う。

 これに対してテレビには、中国のWTO加盟、海南島における米軍機と中国軍機の接触事故、2008年の五輪の北京開催決定など、同じ中国でもまったく違う世界が映し出される。だが、いままさに、そんな別世界の象徴ともいえる北京と大同を繋ぐ高速道路が完成しようとしている。

 定職につくこともなく毎日ぶらぶらしているシャオジイと、仕事をクビになったことを母親に言えずに彼とつるんでいるビンビンは、そんな中央と地方の世界の狭間で次第に宙吊りになっていく。シャオジイはキャンペーン・ガールに恋をし、付きまとったことから、彼女の愛人のヤクザに痛めつけられる。そこで彼は仲間を集め、ヤクザに仕返しをしようとする。

 そのヤクザは、いわば自分が生きられる場所をわきまえている人間であり、彼とまとも渡り合うことは、地方の世界を受け入れることを意味する。しかしシャオジイの殴りこみの勢いは、五輪の開催決定の歓喜と喧騒にかき消されてしまう。そして、宙吊りとなった主人公たちは、中央の世界をつかみとろうとするかのように銀行を襲撃するのだが、現実はそんな幻想を一瞬にして吹き飛ばしてしまうのだ。


(upload:2007/07/12)
 
 
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