賈樟柯インタビュー01

1999年 渋谷
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(初出:「一瞬の夢」劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

ぼくはふたつの新しさを探し求めている

 

 中国映画界から現れた新鋭賈樟柯(ジャ・ジャンクー)。彼の長編デビュー作である『一瞬の夢』の魅力は、まず何よりも今日の中国社会を見つめる現実性と映画的な創造性の高度な融合にあるといえる。 この作品では、開放政策によって急激に変化する社会がドキュメンタリー的な視点でとらえられていると同時に、人物の感情や心理が独自の映像表現で鋭く掘り下げられ、 個人の在り方に対する覚醒をうながす鮮烈なドラマにもなっている。そんな作品に接して筆者がまず興味をそそられるのは、賈樟柯がどのような模索を経て、 このふたつの要素が自然なかたちで融合するスタイルにたどり着いたのかということだ。

 70年、山西省・汾陽生まれの賈樟柯は、陳凱歌(チェン・カイコー)監督の『黄色い大地』を観て衝撃を受け、映画を志すようになったという。 それはあくまできっかけであり、『黄色い大地』と彼の長編デビュー作のスタイルがまったく違っていても何ら不思議はない。だが、彼がこの作品のどんな部分に衝撃を受けたのかということはやはり気になる。

 「この映画を観たのは91年、21歳のときです。何かバサッと切りつけられたような感じでした。ぼくには、あるカットがとても印象に残っていて、 後に北京電影学院に入ってもう一回観たときも、そこで思わず泣いてしまいました。それは、太鼓を使った民族舞踏や雨乞いか何かのような象徴的で劇的な場面ではありません。 女の子が水桶を下げた天秤棒を担いで、水を汲みに行く些細なカットなんです。これは個人的な思い入れからくるものだと思います。
 ぼくの田舎などでは、13とか14歳になるとどうしても家事の一部を引き受けなければならなかった。ぼく自身朝起きたら必ず水汲みに行きました。 特にわが家では、子供のなかで男は自分だけでしたから。ひとつの地区に水道が一本しかなくて、みんなが蛇口をとりあってご飯の準備をする。そうなると水汲みは子供の仕事になるんです。 家族の生活を自分が支えなければみたいな大げさなことではなく、ただ水汲みの辛さをよく覚えているんです。だから結論からいえば、『黄色い大地』を自分の体験とダブらせるように見て、 そういうことを詩的に表現し、大きなパワーを持つことが素晴らしいと思ったんです」

 映画を志すことにした彼は、北京電影学院に入って本格的に映画の勉強を始める。後にインディペンデント、というよりも検閲を受けないアンダーグラウンドというかたちで長編デビューを飾り、 自由な表現を求める彼にとって、この学校での体験にはどのような意味があったあのだろうか。

 「いわゆる専門的な知識に関しては、学生生活がないと得られません。また、もし中国であれだけたくさんの数の映画を観ようと思えば、 あの学校に入るしか手がないわけですから。でも学校で教えられる事には限りがあるし、いま話した程度のものかなという気がします。たとえば、 「映画とは…」というようなマニュアル的なところってあるじゃないですか。何か激しい感情がむきだしになる芝居が必要な場合に、その設定は「屋内にしなさい、外はだめ」と言われるような。 それは基本なのかもしれないけど、絶対ではないはずでしょ。人間というのは、教わったものに対して、本当にそうかなと思いながら成長していくじゃないですか。 だから、そういう意味で教育の効果があったと思います」

 中国では80年代に、陳凱歌や張藝謀(チャン・イーモウ)に代表される第五世代の監督たちが世界の注目を浴びた。彼らは、国が先導する開放政策のなかで、国家の予算で映画を作ることができた。 しかし次第に市場経済が優先されるようになり、その後に登場してくる監督たちは、独力で資金を調達することを余儀なくされている。賈樟柯は映画を取り巻くそんな状況をどう見ているのだろうか。

 「自由競争の時代に突入して、インディペンデントで映画を作るということは、役人や官僚に管理されないことを意味するわけですが、それだけに官僚などから、 もしかしたら有害な思想を持っているのではないかと思われたりするという難しさはあります。また、経済改革の進展にともなって、映画産業や商業映画があらためて見直されるようになったとき、 マスメディアがインディペンデント映画は無価値というようなレッテルを張り、観客に先入観を植え付けることによって、押しつぶされかけたこともありました。
ぼくが思うに、まず中国映画の伝統に欠けているのは記録映画なんです。それはこれまでの中国では育ちにくいものだったのです。またもうひとつの問題として、 映画産業の入り口が非常に狭き門だったことがあります。映画産業に入れるのは、そこに人脈があるか、北京電影学院の試験を通った人たちだけでした。しかしいまでは状況が違う。 たとえば、以前は小津や黒澤の作品を観られるのはひと握りの人間に限られていましたが、いまではビデオなどが普及し、人民元で8元くらい出せば観ることができます。 さらにデジタル機材の普及によって、一般の個人が、自分が撮りたいものを自由に撮れるようになり、記録映像が人々にとって身近なものになりました。 情報や機材が容易に手に入ることによって、中国映画の未来は、閉鎖的な映画産業の外から出てくる人たちが担っていくことになると思います」


◆プロフィール
賈樟柯
 1970年、中国山西省・汾陽(フェンヤン)生まれ。 18歳の時、油絵を学ぶため、山西省の省都・太原(タイユエン)の美術学校に入学、同時に小説を書き始める。 91年、処女小説作品が雑誌「山西文学」に掲載されるが、同年、陳凱歌の「黄色い大地」を見て衝撃を受け、一転、映画を志す。93年北京電影学院に入学、映画理論を専攻。 同時に演出ほか映画全般の知識を学び、実作にも在学中から積極的に関わっていく。95年には、中国映画史上初のインディペンデント映画の製作組織である「若手による実験的映画グループ」の設立に参加。 並行してビデオ・ドキュメンタリー作品「ある日、北京にて」(94)、「盆地の少年」(95〜製作中)、卒業後に完成することになる短編映画「小山回家」(96)を手がける。 96年、「小山回家」は香港インディペンデント・ショート・フィルム・コンテスト劇映画部門でグランプリを受賞、香港国際映画祭にも出品されて注目を集める。
 長編デビュー作「一瞬の夢」は、「小山回家」の成功により香港の製作会社・胡同製作の出資を獲得したことから、中国政府の検閲を通さずに完成。 98年、ベルリン国際映画祭のフォーラム部門に出品されるや否や絶賛を浴び、最優秀新人監督賞と最優秀アジア映画賞をダブル受賞した。その他にも、 バンクーバー、ナント、プサン、リミニで堂々のグランプリを、サンフランシスコでも優秀作品に与えられる特別賞を次々と受賞している。
(「一瞬の夢」劇場用パンフレットより引用)

 



 そんなふうに語る彼は、北京電影学院在学中からドキュメンタリーの製作に積極的に取り組んできた。そして、彼の才能が評価されるきっかけとなった短編『小山回家』の内容からも、 現代の中国社会を自分なりの視点でとらえようとする彼の姿勢がうかがえる。

 「これは初めて作った劇映画で、出稼ぎ労働者を描いた本当に短い作品です。経済的な発展によって、田舎の若者たちは、都会に夢を託すようになり、 農村から都市への人口流出が始まりました。彼らは、レストランのようなサービス業や建築現場などで働くわけです。この短編の主人公も、中国の真ん中あたり、河南省の方からやって来た小山という出稼ぎ少年で、 彼は正月に帰郷するときに、ひとりで帰りたくないから仲間を探す。同郷の仲間のなかには、建築現場の労働者もいれば、チンピラや売春婦になっている人間もいる。 そんなふうに彼が仲間を探すうちに、出稼ぎにきた人々の全景が浮かび上がるというような作品でした」

 こうしたドキュメンタリーや中国社会に対する彼のこだわりは、そのまま『一瞬の夢』に通じているように思える。しかし当初、彼の頭のなかにあった長編デビュー作の構想は、まったく違うものだった。

 「最初はあるアベックの話を考えてました。ふたりは付き合いも長く、惹かれあっているけれども、様々な事情でふたりだけになれない。 しかし、とうとう彼らがひとつの部屋でひと晩過ごせるときがやってくるという……。そんな構想を抱えたまま、正月に久しぶりに田舎に帰ったら、そこで見た状況が自分を現実に目覚めさせました。 人間関係の崩壊を痛切に感じ、沿岸から広がった経済改革がついにこんな内陸地まで来たのかと思いました。
 ぼくは帰郷すれば友だちに会いにいきますが、自分は勉強をやり直した身で、学生としては若くない。しかも田舎だから、友だちは結婚したり子供がいたりする。 ぼくは、彼らがそれぞれに揉めているのがよくわかりました。新婚のカップルがもう離婚の話をしていたり、友だち同士が金銭のことで疎遠になっていたり、昔と違って子供が結婚すると親との絆が希薄になっていたり。 町並みもがらりと変わって、立ち並ぶカラオケ店には外地から来た女の子たちが闊歩していて。すごく感傷的な気分にもなりましたが、とにかくそんな状況を見てすぐに撮りたくなったんです」

 そんな映画の出発点と完成した作品からは、彼のドキュメンタリーに対する意識を強く感じるのだが。

 「物語としてはまったくのフィクションなのですが、確かにぼくは最初からドキュメンタリーにすごく興味があって、実際に作品も作り、思い入れがあるので、 もちろん意識がなかったとはいえないですね。ただし、この題材に関してはこのスタイルで行こうと自分が考えた前提は崩してはいませんが……」

 この『一瞬の夢』でとても印象に残るもののひとつにテレビがある。ヨンの結婚式の話題は、地元のテレビにも取り上げられ、誰もが知っていることだが、主人公の小武だけが蚊帳の外に置かれている。 そんな小武は終盤でスリの現行犯で捕まり、テレビで晒し者にされる。ある意味でテレビは、かつて親友だった小武とヨンのあいだに必要以上に深い溝を作り、彼らを引き裂くともいえる。

 「テレビというメディアにすごく興味があるのは、ひとつの事実がテレビを通すと、デフォルメされるというか、違ったものになってしまうという意識があるからです。 物事が現実であるのと現実感があるのは違うことです。テレビは、カメラを通すことによって、小さな感情が異様に大きくなったり、 何かが非常にもっともらしくなったりとか、そういう性質があるがあると思うんです」

 登場人物たちのあいだに距離を作ってしまうのはテレビだけではない。メイメイは、離れて暮らす両親には、電話で自分が北京で女優の勉強をしているような嘘をつき、小武にはポケベルを持たせるが、 結果的にはそれがふたりを隔てていくことになる。

 「電話は遠くて直接話ができない人間同士を近づけてくれるものです。ところが不思議なことに、便利な道具が時として人との距離を遠く感じさせる。 たとえば、息子が両親に電話一本で「今日は、行けなくてごめんね」と謝ったりするよりも、少しは届くのが遅くても手紙で息子の文字を見られた方が、親は安心できるかもしれない。 テクノロジーの発達と感覚の伝わり方には、表裏一体になっているところがあって、そこから生まれる孤立感についてすごく考えたことがあります。
 しかし、小武は違うんです。彼は昔からの価値観を持った人間だから、結婚式に呼ばれていなくても、ヨンと直接向き合わなければならない。信じていた友だちに対して顔を見なければすまないというのは、 とても勇気がいることだし、近づこうとする気力というか、切迫したものがあると思います。それからメイメイに対しても、家まで訪ねていって彼女と向き合う。 あそこはすごい長回しで撮ってるけど、あのあえて訪ねていく、面と向かおうとするところに切迫感がある。
 ぼくは、ちょっとゴツゴツしてるけど、ありのままみたいな、そういう感じのスタイルでこの映画を撮りたかった。なぜなら、今の中国を撮っている人はたくさんいると思うけど、ぼくにいわせると、 みんなお洒落できれいに装飾されている。だからこそ生のままの小武が直接向き合う、そういう切迫感とかストレートさで映画を撮りたかったんです」

 この映画では、小武とその周囲の人々がそれぞれにふたつの顔を持ちながら、それがまったく対照的な関係にある。主人公にはスリという裏の顔があるが、もう一方で彼は、 賈樟柯が語るように直接向き合おうとする表の顔を持っている。彼の周囲の人々にもふたつの顔がある。彼らは、テレビや電話、ポケベルが生みだす距離を利用して、人と直接向き合っているかのように装っている。 しかし、その距離を消し去ってしまえば、彼らは打算に満ちた利己的な顔を表に向け、直接向き合う顔を裏に押し隠しているのである。

 そんな対照的なふたつの顔の関係が、この映画のラストシーンを鮮烈なものにする。映画の終盤で、小武は裏の顔を表に出すことを強要され、惨めな晒し者になる。 それは、彼と周囲の人々が持つふたつの顔の関係が同じになる瞬間であり、表の顔を裏に押し込まれた彼の姿は、彼を見る人々そのものの姿でもある。 彼の惨めさは、そんなふうにして鏡のように周囲の人々や観客へと跳ね返ってくるのだ。

 ところで、この映画では、カラオケ店の場面などで繰り返し流れる歌が印象に残るのだが、賈樟柯は何か意図があってこの曲を使っているのだろうか。

 「カラオケ店という場所のせいもありますが、この歌詞自体に退廃的といか、何かどうすることもできない絶望、諦観のようなものがあって、そういう感情が含まれていることがすごく気に入ってました。 この歌のなかにこんな詞があるんです、「あーもういいわよ。もうそんなこと放っといて。そんな事知らないわよ。わたしはとにかく飲んでるんだから」って。 これはね、たぶん97年の頃の中国で、一般の人々みんなが感じていた気持ちだったんじゃないかなと思うんです」

 賈樟柯はいま、次回作となる『Platform』の準備を進めているが、それはどのような作品なのだろうか。

 「次の作品は、経済的な発展のなかで、社会が大きく変化していった80年代を舞台に、ロック・バンドを結成した若者たちが、中国を西へと旅していく物語です。この作品では、10年くらいの時間の流れがあるので、 表現のスタイルについても、完全に統一されたものではなく、それぞれの時期によって変えて撮ろうと考えてます。だから複数のスタイルがごちゃ混ぜになったかたちになるのではないかと思います」

 この次回作のコメントにも現れているが、賈樟柯のユニークなところは、ひとつのスタイルに固執しないところだ。彼はこのインタビューのあいだに、 「この題材にはこのスタイル」という言葉を、念を押すように何度も繰り返していた。

 「ぼくは新しい作品を作るたびに、当然その題材に最もふさわしいスタイルで撮らなければいけないと思っています。でもそれとは別に、 どこか精神的な部分で一貫して揺るがないものを持ちつづけたいという気持ちもあります。自分には映画の作り手としてふたつの力が働いていると思います。ひとつは、何かを繰り返すのではなく常に新しいものを作ろうとすること。 もうひとつは、世の中をどのように見るか、常に異なる視点を提示すること。そんなふたつの新しさを探し求めているのではないかと思います」

 筆者はこの原稿の冒頭で、彼の映画の魅力は、社会を見る現実性と映画的な創造性の高度な融合と書いたが、その魅力の源は、このふたつの新しさを求めることにあるのではないかと思う。 そして、このふたつの新しさが複雑に絡み合い、発展していく彼の世界からは、中国社会と中国映画の未来が見えてくることだろう。

 

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