そんなふうに語る彼は、北京電影学院在学中からドキュメンタリーの製作に積極的に取り組んできた。そして、彼の才能が評価されるきっかけとなった短編『小山回家』の内容からも、
現代の中国社会を自分なりの視点でとらえようとする彼の姿勢がうかがえる。
「これは初めて作った劇映画で、出稼ぎ労働者を描いた本当に短い作品です。経済的な発展によって、田舎の若者たちは、都会に夢を託すようになり、
農村から都市への人口流出が始まりました。彼らは、レストランのようなサービス業や建築現場などで働くわけです。この短編の主人公も、中国の真ん中あたり、河南省の方からやって来た小山という出稼ぎ少年で、
彼は正月に帰郷するときに、ひとりで帰りたくないから仲間を探す。同郷の仲間のなかには、建築現場の労働者もいれば、チンピラや売春婦になっている人間もいる。
そんなふうに彼が仲間を探すうちに、出稼ぎにきた人々の全景が浮かび上がるというような作品でした」
こうしたドキュメンタリーや中国社会に対する彼のこだわりは、そのまま『一瞬の夢』に通じているように思える。しかし当初、彼の頭のなかにあった長編デビュー作の構想は、まったく違うものだった。
「最初はあるアベックの話を考えてました。ふたりは付き合いも長く、惹かれあっているけれども、様々な事情でふたりだけになれない。
しかし、とうとう彼らがひとつの部屋でひと晩過ごせるときがやってくるという……。そんな構想を抱えたまま、正月に久しぶりに田舎に帰ったら、そこで見た状況が自分を現実に目覚めさせました。
人間関係の崩壊を痛切に感じ、沿岸から広がった経済改革がついにこんな内陸地まで来たのかと思いました。
ぼくは帰郷すれば友だちに会いにいきますが、自分は勉強をやり直した身で、学生としては若くない。しかも田舎だから、友だちは結婚したり子供がいたりする。
ぼくは、彼らがそれぞれに揉めているのがよくわかりました。新婚のカップルがもう離婚の話をしていたり、友だち同士が金銭のことで疎遠になっていたり、昔と違って子供が結婚すると親との絆が希薄になっていたり。
町並みもがらりと変わって、立ち並ぶカラオケ店には外地から来た女の子たちが闊歩していて。すごく感傷的な気分にもなりましたが、とにかくそんな状況を見てすぐに撮りたくなったんです」
そんな映画の出発点と完成した作品からは、彼のドキュメンタリーに対する意識を強く感じるのだが。
「物語としてはまったくのフィクションなのですが、確かにぼくは最初からドキュメンタリーにすごく興味があって、実際に作品も作り、思い入れがあるので、
もちろん意識がなかったとはいえないですね。ただし、この題材に関してはこのスタイルで行こうと自分が考えた前提は崩してはいませんが……」
この『一瞬の夢』でとても印象に残るもののひとつにテレビがある。ヨンの結婚式の話題は、地元のテレビにも取り上げられ、誰もが知っていることだが、主人公の小武だけが蚊帳の外に置かれている。
そんな小武は終盤でスリの現行犯で捕まり、テレビで晒し者にされる。ある意味でテレビは、かつて親友だった小武とヨンのあいだに必要以上に深い溝を作り、彼らを引き裂くともいえる。
「テレビというメディアにすごく興味があるのは、ひとつの事実がテレビを通すと、デフォルメされるというか、違ったものになってしまうという意識があるからです。
物事が現実であるのと現実感があるのは違うことです。テレビは、カメラを通すことによって、小さな感情が異様に大きくなったり、
何かが非常にもっともらしくなったりとか、そういう性質があるがあると思うんです」
登場人物たちのあいだに距離を作ってしまうのはテレビだけではない。メイメイは、離れて暮らす両親には、電話で自分が北京で女優の勉強をしているような嘘をつき、小武にはポケベルを持たせるが、
結果的にはそれがふたりを隔てていくことになる。
「電話は遠くて直接話ができない人間同士を近づけてくれるものです。ところが不思議なことに、便利な道具が時として人との距離を遠く感じさせる。
たとえば、息子が両親に電話一本で「今日は、行けなくてごめんね」と謝ったりするよりも、少しは届くのが遅くても手紙で息子の文字を見られた方が、親は安心できるかもしれない。
テクノロジーの発達と感覚の伝わり方には、表裏一体になっているところがあって、そこから生まれる孤立感についてすごく考えたことがあります。
しかし、小武は違うんです。彼は昔からの価値観を持った人間だから、結婚式に呼ばれていなくても、ヨンと直接向き合わなければならない。信じていた友だちに対して顔を見なければすまないというのは、
とても勇気がいることだし、近づこうとする気力というか、切迫したものがあると思います。それからメイメイに対しても、家まで訪ねていって彼女と向き合う。
あそこはすごい長回しで撮ってるけど、あのあえて訪ねていく、面と向かおうとするところに切迫感がある。
ぼくは、ちょっとゴツゴツしてるけど、ありのままみたいな、そういう感じのスタイルでこの映画を撮りたかった。なぜなら、今の中国を撮っている人はたくさんいると思うけど、ぼくにいわせると、
みんなお洒落できれいに装飾されている。だからこそ生のままの小武が直接向き合う、そういう切迫感とかストレートさで映画を撮りたかったんです」
この映画では、小武とその周囲の人々がそれぞれにふたつの顔を持ちながら、それがまったく対照的な関係にある。主人公にはスリという裏の顔があるが、もう一方で彼は、
賈樟柯が語るように直接向き合おうとする表の顔を持っている。彼の周囲の人々にもふたつの顔がある。彼らは、テレビや電話、ポケベルが生みだす距離を利用して、人と直接向き合っているかのように装っている。
しかし、その距離を消し去ってしまえば、彼らは打算に満ちた利己的な顔を表に向け、直接向き合う顔を裏に押し隠しているのである。
そんな対照的なふたつの顔の関係が、この映画のラストシーンを鮮烈なものにする。映画の終盤で、小武は裏の顔を表に出すことを強要され、惨めな晒し者になる。
それは、彼と周囲の人々が持つふたつの顔の関係が同じになる瞬間であり、表の顔を裏に押し込まれた彼の姿は、彼を見る人々そのものの姿でもある。
彼の惨めさは、そんなふうにして鏡のように周囲の人々や観客へと跳ね返ってくるのだ。
ところで、この映画では、カラオケ店の場面などで繰り返し流れる歌が印象に残るのだが、賈樟柯は何か意図があってこの曲を使っているのだろうか。
「カラオケ店という場所のせいもありますが、この歌詞自体に退廃的といか、何かどうすることもできない絶望、諦観のようなものがあって、そういう感情が含まれていることがすごく気に入ってました。
この歌のなかにこんな詞があるんです、「あーもういいわよ。もうそんなこと放っといて。そんな事知らないわよ。わたしはとにかく飲んでるんだから」って。
これはね、たぶん97年の頃の中国で、一般の人々みんなが感じていた気持ちだったんじゃないかなと思うんです」
賈樟柯はいま、次回作となる『Platform』の準備を進めているが、それはどのような作品なのだろうか。
「次の作品は、経済的な発展のなかで、社会が大きく変化していった80年代を舞台に、ロック・バンドを結成した若者たちが、中国を西へと旅していく物語です。この作品では、10年くらいの時間の流れがあるので、
表現のスタイルについても、完全に統一されたものではなく、それぞれの時期によって変えて撮ろうと考えてます。だから複数のスタイルがごちゃ混ぜになったかたちになるのではないかと思います」
この次回作のコメントにも現れているが、賈樟柯のユニークなところは、ひとつのスタイルに固執しないところだ。彼はこのインタビューのあいだに、
「この題材にはこのスタイル」という言葉を、念を押すように何度も繰り返していた。
「ぼくは新しい作品を作るたびに、当然その題材に最もふさわしいスタイルで撮らなければいけないと思っています。でもそれとは別に、
どこか精神的な部分で一貫して揺るがないものを持ちつづけたいという気持ちもあります。自分には映画の作り手としてふたつの力が働いていると思います。ひとつは、何かを繰り返すのではなく常に新しいものを作ろうとすること。
もうひとつは、世の中をどのように見るか、常に異なる視点を提示すること。そんなふたつの新しさを探し求めているのではないかと思います」
筆者はこの原稿の冒頭で、彼の映画の魅力は、社会を見る現実性と映画的な創造性の高度な融合と書いたが、その魅力の源は、このふたつの新しさを求めることにあるのではないかと思う。
そして、このふたつの新しさが複雑に絡み合い、発展していく彼の世界からは、中国社会と中国映画の未来が見えてくることだろう。 |