あくまで風俗を通して若者たちの軌跡を描きながら、政治と経済的な豊かさ、そして集団と個人の関係を浮き彫りにするジャ・ジャンクーの視点は実に素晴らしいが、それは最初から頭にあったことなのだろうか。
「この映画の脚本にはたくさんのバージョンがあります。95年くらいからこの80年代の物語を撮りたいと思っていて、99年くらいまでのあいだに毎回、脚本の中身が変わり、そのなかから出てきたものだと思います。自分は一年一年、年をとりながら大人になり、そのあいだに自分の考えも変化していくものなので、みなさんにお見せしたものは、99年にまとめたこれまでの報告といえます。ぼくらにとって80年代は振り返らざるをえない時代です。自分たちの失敗、挫折、落胆といったものが、どこからきたのかと考えるときに、必ずそこにぶち当たるわけですから、どうしても振り返らざるをえない。実際に撮影するときに自分が一番気をつけたことはなんだったかというと、時代の変化というものをしっかりと消化し、登場人物たちの日常生活のなかに落ち着かせるということでした。原点にあるのは人間であって、社会を撮っているわけではないので、そこにちゃんと帰着できるかどうかということに特に注意をはらいました」
ジャ・ジャンクーが80年代の中国を描くうえでポイントになっているのが、彼の生まれ故郷でもある山西省の汾陽だ。改革開放以後の中国では、都市と農村の経済格差が問題となったが、汾陽はそのどちらでもない。
「汾陽は自分が育った町なので、もちろん思い入れはあります。どういう場所かというと、都会でも田舎でもなく、その中継地点なんです。ニュースやその他のものが、広州や上海、北京から入ってきて、それをさらに農村へと伝える。もう一方で、農村から出荷されたものがそこを経由して、大都市に送り出される。その都市でも農村でもないというのが、中国の普遍的な状況であって、ぼくはそういう場所をよく知っていて、この映画にはその中継地点のような場所が必要だったんです」
そしてもうひとつのポイントが、主人公たちが所属している文化劇団という設定だ。汾陽を拠点に巡業を繰り返す彼らのドラマは、自ずと中継地点としての汾陽と時代の変化を際立たせることになる。
「なぜ文化劇団かというと、70年代末から80年代にかけて、彼らは田舎でも都会でもない場所で唯一、娯楽や創造的なものを生み出せる存在だったんです。映画館には退屈な作品しかかからず、テレビがまだ普及してなかった時代に、ある意味で彼らは主流というか、娯楽の殿堂だった。そして、変化の10年のなかで、急速に打ち捨てられたという意味では彼らがいちばんひどかった。同じ時代の変化を受けるのでも、工場とか農村で働く人よりも迅速に、よりひどく影響をこうむった。もともと中央の政策のために存在していた団体だったから、もうお金が払えないから自分でやれといわれるに等しかった。それともうひとつ、急激にマスコミが発達して、メディアが広がることによる衰退というのもある。そういう意味で、主人公の生活の場として文化劇団を選びました」
この『プラットホーム』で80年代という時代を振り返ったジャ・ジャンクーは、今度はどこに向かおうとしているのだろうか。
「新作の撮影はすでに終了していて、ポスト・プロダクションの作業を進めています。同じ山西省でも汾陽よりもう少し大きい大同という都市を舞台にしたふたりの少年の物語です。内容は、絶望や挫折のあとに芽生えてきた暴力性というか。80年代という時代を経て、貧富の差があまりにもひどくなり、そんななかで底辺からわき上がってくる怒りのようなものを描いています。その前の時代があって、今という時代があるということです」 |