賈樟柯(ジャ・ジャンクー)インタビュー02
Interview with Zhang Ke Jia 02


2001年 渋谷
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(初出:「キネマ旬報」2001年12月下旬号、加筆)

 

 

どうしても振り返らざるをえない80年代

 

 ジャ・ジャンクーは新作の『プラットホーム』で、ファッションや音楽、生活、劇団の出し物などの風俗を通して、改革開放政策によって急激な変貌を遂げていく80年代の中国を描きだす。しかしそのドラマは、政治と経済的な豊かさ、そして集団と個人の関係を見事に浮き彫りにしてしまう。

 79年に、村の建設予定図らしきものの前に集う人々の姿、あるいは、毛沢東を讃える劇を上演し、移動のバスで点呼を行う劇団の姿は、革命の理想に向かって前進する集団そのものである。しかしその翌年には、初めてパーマをかけた娘が、毛沢東の肖像画の前でフラメンコを踊ってみせる。彼女がまとう衣装の赤には、革命の理想とは異なる感情が宿っている。そして、これまで集団が共有していた物が次第に個人の所有物に変わり、人々は自分の家の壁の上に砕いたガラスを埋め込むようになる。

「ほんとうにあなたがご覧になった通りです。あなたがおっしゃったことをはっきり自覚してこの映画を撮りました。最初に村人たちが集まっている場面では、彼らは集団で行動していて、ひとりひとりというのはどうでもいいものだった。タバコを吸ったり、事故があったねと話したりしているけど、ひとりひとりははっきりしていない。いまおっしゃったように、点呼すればそこにはひとりひとりの人間がいるわけですが、彼らはひとつのバスに乗って、同じ方向に向かっている。80年代にフラメンコを踊ったり、パーマをかけるというのは、日常の瑣末な変化ですが、それが何を意味するかというと、自我のはじまりというか……それまでは集団が大事で個人は大事ではなかったけど、いまでは自分を見つめ、社会的な自分探しが始まった、そういうことの象徴ではないかなと思ってます。だから時代がだんだん経過していくと、全体がどうかということよりも自分がどうであるかということが強くなっていき、全体の影が薄くなっていく。ぼくはそういうふうに考えていました」

 改革開放への道を切り開いた故?小平はかつて、ゴルバチョフの過ちは経済を改革する前に政治的な自由を許したことだと語った。この言葉の裏には、人は経済的に豊かになれば、それほど政治的な自由を意識しなくなるという考えがある。ジャ・ジャンクーは、80年代に自我に目覚めた若者たちを深い共感を込めて描きながら、同時にこの現実を冷徹に見据えている。主人公たちは、最初は自由を謳歌しているように見えるが、決してそうではない。彼らは、中央の政策が生んだ新たな価値観を、巡業を通して地方に広めるためのただの駒でもあるのだ。

「その通りです。パーマをかけるとか、そういう若者たちのいろいろな行動というのは、経済改革におけるひとつの開放でしかなくて、自由ではないわけです。政治的な次元においてはそれなりにコントロールされていたわけで、だから後半のようなドラマにつづいていく。そんななかでただのありきたりの人間だった主人公たちは、生活の原点に帰っていく。放浪をやめて結婚し、子供を生んでというような。だから、おっしゃる通りというのが答です」


◆プロフィール
賈樟柯
 1970年、中国山西省汾陽(フェンヤン)に生まれる。18歳の時に山西省の省都太原(タイユェン)の芸術大学に入り、油絵を専攻。同時に小説執筆を始める。この頃、映画に関心を持ち、93年に北京電影学院に入学。95年には仲間と共にインディペンデント映画製作グループを組織し、73分のビデオ作品「小山回家」を監督。河南省から北京に出てきた青年が失意の末に田舎に戻ることを決意するプロセスを描いたこの作品は、香港インディペンデント映画賞の金賞を受賞し、香港国際映画祭でも上映された。97年に北京電影学院を卒業し、その卒業製作として16mm長編劇映画『一瞬の夢』を監督。故郷の町汾陽を舞台にすべて素人を俳優として起用したこの作品は、ワールド・プレミア上映となった98年のベルリン国際映画祭でヴォルフガング・シュタウテ賞(最優秀新人監督賞)を受賞したのを始め、プサン国際映画祭、バンクーバー国際映画祭、ナント三大陸映画祭で連続してグランプリを獲得し、国際的に大きな注目を集めた。本作『プラットホーム』は長編第2作であり、初めての35mm作品である。今年に入り、チョンジュ国際映画祭の企画によるデジタルビデオ短編「In Public」を完成させる。現在、最新作“任逍遥(Unknown Pleasure)”を製作中。
(『プラットホーム』プレスより引用)

 

 



 あくまで風俗を通して若者たちの軌跡を描きながら、政治と経済的な豊かさ、そして集団と個人の関係を浮き彫りにするジャ・ジャンクーの視点は実に素晴らしいが、それは最初から頭にあったことなのだろうか。

「この映画の脚本にはたくさんのバージョンがあります。95年くらいからこの80年代の物語を撮りたいと思っていて、99年くらいまでのあいだに毎回、脚本の中身が変わり、そのなかから出てきたものだと思います。自分は一年一年、年をとりながら大人になり、そのあいだに自分の考えも変化していくものなので、みなさんにお見せしたものは、99年にまとめたこれまでの報告といえます。ぼくらにとって80年代は振り返らざるをえない時代です。自分たちの失敗、挫折、落胆といったものが、どこからきたのかと考えるときに、必ずそこにぶち当たるわけですから、どうしても振り返らざるをえない。実際に撮影するときに自分が一番気をつけたことはなんだったかというと、時代の変化というものをしっかりと消化し、登場人物たちの日常生活のなかに落ち着かせるということでした。原点にあるのは人間であって、社会を撮っているわけではないので、そこにちゃんと帰着できるかどうかということに特に注意をはらいました」

 ジャ・ジャンクーが80年代の中国を描くうえでポイントになっているのが、彼の生まれ故郷でもある山西省の汾陽だ。改革開放以後の中国では、都市と農村の経済格差が問題となったが、汾陽はそのどちらでもない。

「汾陽は自分が育った町なので、もちろん思い入れはあります。どういう場所かというと、都会でも田舎でもなく、その中継地点なんです。ニュースやその他のものが、広州や上海、北京から入ってきて、それをさらに農村へと伝える。もう一方で、農村から出荷されたものがそこを経由して、大都市に送り出される。その都市でも農村でもないというのが、中国の普遍的な状況であって、ぼくはそういう場所をよく知っていて、この映画にはその中継地点のような場所が必要だったんです」

 そしてもうひとつのポイントが、主人公たちが所属している文化劇団という設定だ。汾陽を拠点に巡業を繰り返す彼らのドラマは、自ずと中継地点としての汾陽と時代の変化を際立たせることになる。

「なぜ文化劇団かというと、70年代末から80年代にかけて、彼らは田舎でも都会でもない場所で唯一、娯楽や創造的なものを生み出せる存在だったんです。映画館には退屈な作品しかかからず、テレビがまだ普及してなかった時代に、ある意味で彼らは主流というか、娯楽の殿堂だった。そして、変化の10年のなかで、急速に打ち捨てられたという意味では彼らがいちばんひどかった。同じ時代の変化を受けるのでも、工場とか農村で働く人よりも迅速に、よりひどく影響をこうむった。もともと中央の政策のために存在していた団体だったから、もうお金が払えないから自分でやれといわれるに等しかった。それともうひとつ、急激にマスコミが発達して、メディアが広がることによる衰退というのもある。そういう意味で、主人公の生活の場として文化劇団を選びました」

 この『プラットホーム』で80年代という時代を振り返ったジャ・ジャンクーは、今度はどこに向かおうとしているのだろうか。

「新作の撮影はすでに終了していて、ポスト・プロダクションの作業を進めています。同じ山西省でも汾陽よりもう少し大きい大同という都市を舞台にしたふたりの少年の物語です。内容は、絶望や挫折のあとに芽生えてきた暴力性というか。80年代という時代を経て、貧富の差があまりにもひどくなり、そんななかで底辺からわき上がってくる怒りのようなものを描いています。その前の時代があって、今という時代があるということです」


(upload:2002/04/18)
 
 
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