ジャ・ジャンクー監督の『長江哀歌』の舞台は、大河・長江の景勝の地、三峡にある古都・奉節(フォンジェ)。そこでは、三峡ダム建設という国家的な大事業が急ピッチで進められている。2000年以上の歴史を持つ古都がやがて完全に水没し、軽く100万人を越える住人が移住を余儀なくされるといえば、その規模の大きさが察せられるだろう。映画の重要な背景となるこの壮大なプロジェクトとジャ・ジャンクーがこれまでの作品で描き出してきた中国社会の変化には、深い繋がりがある。
1979年から91年に至る時代を背景にした『プラットホーム』(00)の冒頭で、主人公たちが毛沢東を讃える劇を上演するとき、彼らは理想を共有する集団の一員である。しかし、ケ小平の改革開放政策のなかで、彼らは自由を獲得し、個人としての人生を歩みだす。それがどんな自由であったのかは、終盤で天安門事件のニュースが流れるときに明らかになる。経済的な自由はあっても、政治的な自由はない。
そこで中央政府は、新たな課題を背負うことになる。中国が共産主義体制から自由経済へと移行し、個人主義が広がれば広がるほど、国民をひとつにしていくための新たな求心力が必要になる。『青の稲妻』(02)には、そのひとつの答えが見える。地方都市で鬱屈した日々を送る二人の若者は、女をめぐってヤクザと対立する。しかし、そんな緊張は、北京オリンピック開催決定を伝えるニュースとともに沸き起こる歓喜と喧騒にあっさりとかき消されてしまう。二人は、人々の輪に加わることもなく、呆然と立ち尽くしている。
続く『世界』(04)にも、そんな求心力と疎外がある。北京に居ながらにして世界を回れるテーマパーク「世界公園」という舞台は、中国と世界が何の障害もなく繋がっているかのような錯覚を生む。そこでダンサーとして働く主人公は、現実の世界≠ノ憧れながら幻想の世界≠生きている。
『青の稲妻』や『世界』の主人公たちは、変化する社会を生きているだけではなく、新たな求心力が生み出す見えない政治的な力にさらされている。
そして、三峡ダム建設プロジェクトも、その歴史を振り返ってみると、現実的な大事業から、それ以上に求心力に価値を置くものへと変化してきたことがわかる。孫文が提唱したダム建設の構想は、中華人民共和国に引き継がれる。しかし毛沢東は、賛成派と反対派の主張を吟味し、建設を思いとどまった。それに対して、建設に向けて効力を持つお墨付きを与えたのがケ小平だ。そして、天安門事件の直後に、反対派の意見を掲載した書物『長江 長江−三峡工程論争』が発禁処分になり、ダム建設は、中央政府が背負った新たな課題の答えに変貌を遂げていく。 |