ジャ・ジャンクー監督が『長江哀歌』以来7年ぶりに手がけた長編劇映画『罪の手ざわり』では、最近の中国で起こった四つの事件が巧みに結びつけられ、広い中国の各地に舞台を移しながら著しい格差が生み出す現実が浮き彫りにされていく。
この新作でまず目を奪われるのは、これまでにない鮮烈な暴力描写だ。山西省では、村の共同所有だった炭鉱の利益が実業家に独占されていることに怒りを抑えられない男ダーハイが猟銃を持ちだす。重慶に妻子を残して出稼ぎ出た男チョウは、土地を転々としながら強盗を繰り返す。湖北省の風俗サウナで受付係として働く女シャオユーは、金にものを言わせてサービスを強要する客に我慢がならず、ナイフを手にする。広東省では、仕事に馴染めない純朴な青年シャオホイがナイトクラブのダンサーにのめり込んでいく。
そんな暴力描写の背後には、中国社会に対するジャ・ジャンクー監督の視点の変化を見ることができる。彼はプレスに収められたインタビューで以下のように語っている。
「私の初期の作品は中国の一般庶民の生活にフォーカスしたものでした。しかし、『長江哀歌』以降、人びとは時に状況を変えるために極端に暴力的な手段をとることがあるということに気づきました。このため、暴動は政治的な問題だけではなく、人間の本質に潜む問題ではないかと思うようになりました」
これまでジャ監督は、集産主義から市場経済の導入によって急激な変貌を遂げる中国社会を一般庶民の視点で見つめてきた。そんな経済発展のなかでは個人主義が広がるが、中央政府は国家的な大事業などを通して求心力を維持しようとする。ジャ監督は、北京五輪開催決定の瞬間(『青の稲妻』)や山峡ダム建設(『長江哀歌』)などを作品に盛り込むことで、個人と中央の見えない政治的な力の関係を掘り下げてきた。
この新作では明らかにその先にある現実が描かれる。もはや中央の政治的な力は個人には及ばない。その代わりに競争社会の勝ち組が台頭し、猛威をふるう。金の力にものを言わせて主人公たちを踏みにじる。だが、これまでの見えない政治的な力とは違い、勝ち組は目の前に存在する。だから最低限の尊厳も奪われた主人公たちは、それを取り戻すために暴力を行使する。
しかし、彼らが一線を越える理由はおそらくそれだけではない。ダーハイの隣人はみな実業家に丸め込まれている。チョウの故郷には地縁も伝統も残っているが、屈折した感情を抱える彼はそれを拒絶する。不倫の泥沼にはまり込んだシャオユーは、故郷に戻ることも考えるが、母親が離婚を決意していることを知る。シャオホイの母親は、息子からの仕送りしか頭にない。つまり彼らには戻るべき場所も失われている。 |