トッド・ソロンズの新作『ストーリーテリング』には、差別意識に対するこの監督(『ウェルカム・ドールハウス』『ハピネス』)ならではのひねりまくった洞察が散りばめられ、ある意味で非常に滑稽でありながら、笑うことに後ろめたさをともなうドラマが繰り広げられる。
その洞察はまた、アメリカにおけるマイノリティについてあらためて考えてみるきっかけを与えてもくれる。ドラマは、80年代半ばと現代のニュージャージーを背景にした二部で構成されているのだが、その時代の隔たりからは、マイノリティに対する主人公たちの意識の変化が見えてくる。
<フィクション>と名付けられた一部の主人公は、創作科のクラスを受講している女子大生のヴァイ。彼女には、平凡な中流の白人であることにコンプレックスがあり、それが人と違うことへのオブセッションにまでエスカレートしつつある。彼女の恋人は、脳性小児麻痺による障害がある同級生で、その彼と喧嘩すると、今度は創作科を受け持つ黒人の教授に惹かれていく。教授の部屋に案内された彼女は、彼がSMマニアであることに気づき、戸惑うが、「黒人を差別するな」とひたすら自分に言い聞かせ、彼の言いなりになる。
<ノンフィクション>と名付けられた二部の主人公は、高級住宅地に暮らすユダヤ系アッパーミドルのリビングストン一家で、彼らの家には、エルサルバドル出身の住み込みの家政婦がいる。一家の末っ子である小5の優等生は、この家政婦から冷たくあしらわれたことを根に持ち、父親に催眠術をかけて彼女を解雇してしまうが、一家はとんでもない仕返しをされることになる。
80年代のアメリカはレーガンの登場によって保守化し、マイノリティにとって受難の時代となったが、実は白人たちも、公民権運動の恩恵を受けてすでに社会進出を果たしていたマイノリティのパワーによって、精神的に抑圧されていた。
女性ジャーナリスト、バーバラ・エーレンライクが辛口のユーモアで80年代を切ったコラム集『われらの生涯の最悪の年』には、「白人であることの耐え難さ」というコラムがあり、白人の自尊心の低下に言及している。
「一世代前に白人たちは、都会の猥雑さと人種混交の環境から群れをなして逃亡し、白人だけの郊外住宅地をつくった。当時は誰も想像しなかったことだが、庭の芝刈りや垣根の手入れだけの生活はやがて、頭を鈍らせ、精神を衰えさせてしまった。その結果がいまに現れたと思う」
そういう抑圧から逃れようとすれば、人と違うことや差別にも自ずと敏感になる。また、当時の小説や映画では、異なる人種の間でトラブルがあった場合に、それが個人的な問題だったとしても人種が政治的な駆け引きのカードに使われ、意外な方向へと発展する物語が目立っていた。
映画化もされたトム・ウルフの『虚栄の篝火』では、超エリートのトレーダーが、愛人を乗せた車でサウス・ブロンクスに迷い込み、黒人の少年を轢き逃げするが、その事件は人種問題と絡んで主人公を追い詰める。ジョン・セイルズの『希望の街』では、白人の教授を襲って捕まった黒人の二人組のストリート・キッズが、ホモに迫られたためと正当防衛を主張したことから、事件が人種問題とリンクし、被害者は訴えを取り下げることを余儀なくされる。
『ストーリーテリング』の一部の物語には、そんな現実が反映されていた。しかし、二部ではそんな図式が変化する。グローバリゼーションが歴史や伝統を葬り去り、人種さえも飲み込み、人は富という基準だけで振り分けられようとしている。だから、登場人物がユダヤ人やヒスパニックであることに意味はなく、貧富の差だけがものをいう。
そして、ニック・カサヴェテスの『ジョンQ』やロジャー・ミッチェルの『チェンジング・レーン』からも、そんな現代が見えてくる。
『ジョンQ』では、保険が適用されず、心臓移植手術を受けられない息子を救うために、父親が病院を占拠する。監督のニックは、当初白人に設定されていた主人公を黒人に変えたということだが、それによって際立つのは人種問題ではない。この父親は、長年勤めた工場の拠点が人件費の安い海外に移ったために、半日勤務に格下げされ、保険のランクも勝手に引き下げられていた。保険会社も病院も優先するのは利益であり、市場主義は弱者を冷酷に切り捨てる。
『チェンジング・レーン』では、見るからに成功者を思わせる白人と風采の上がらない黒人がフリーウェイで接触事故を起こす。黒人の男ギブソンは示談を求めるが、若く有能な弁護士ギャビンは、重要な案件を抱えて裁判所に急いでいたため、白紙の小切手を渡してその場を去ってしまう。残されたギブソンも、アル中を克服し、別居中の妻子との関係を修復するために裁判所に向かっているところだったが、彼の車は動かず、家族を取り戻す機会を失ってしまう。一方、無事に出廷したギャビンは、重要なファイルを事故現場に置き忘れたことに気づく。それを持っているのはギブソンだった。
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