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誰よりも狙われた男 / ジョン・ル・カレ
A Most Wanted Man / John le Carre (2008)


2013年/加賀山卓朗訳/早川書房
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(初出:)

 

 

世界は二元論に支配されるのか、第三の道が切り拓かれるのか
苛烈な神経戦を通して浮き彫りにされる9.11以後の「テロとの戦い」

 

[ストーリー] ドイツのハンブルクにやって来た痩せぎすの若者。彼はイッサという名前で、トルコ人の家に滞在することになる。イッサは体じゅうに傷跡があり、密入国していた。そんな折、銀行の経営者トミー・ブルーのもとに、一人の女性から電話がかかってきて、会うことになる。彼女の名前はアナベル・リヒター、慈善団体の弁護士だった。彼女は、依頼人のイッサがあなたに救ってもらえると思っていると言った。その後ブルーは自分の銀行に、ある人物の秘密口座が存在することを知る。

 その頃、ドイツの諜報界はイッサを追っていた。イッサはチェチェン出身の過激派として国際指名手配されていたのだ。ドイツの諜報界が主導権争いに揺れ、英米情報部が介入してくる中、練達のスパイ、バッハマンは、イッサに迫っていく。そして、命を懸けてイッサを救おうとするアナベルと、彼女に魅かれ始めたブルーも、その暗闘の中に巻き込まれていく。

 ジョン・ル・カレの『誰よりも狙われた男』を読みながら、最初に筆者が思い出したのは、デイヴィッド・ライアンの『9・11以後の監視』のなかにある以下のような記述だ。

9・11以後、公正な社会ではあらゆる人々に平等な機会が開かれているという、尊重されるべき信条でさえ、雲行きが怪しくなっている。もう一つのニューヨークの名高いシンボルである自由の女神も、そこで嘆いているに違いない。なるほど、確かにアメリカ合衆国はこれまで一度も平等な社会を求める気高い要求に応じることはなかった。だが、2001年の事件以来、すでにあった不平等と不均衡が拡大してきている。戦時中は、他国や敵に対する敵意に満ちた防衛が高まり、疑いの文化が台頭し、誰もそれを免れることはできない。今回の「戦争」も例外ではない。相互信頼という社会の基盤はこうして損なわれつつある

 この小説の舞台はドイツのハンブルクだが、アメリカに広がった“疑いの文化”と無関係ではない。それは物語の導入部にある以下のような記述から容易に察することができる。

九・一一以来、ハンブルクのモスクは危険な場所になっていた。まちがったところに行ったり、場所はよくてもまちがった導師(イマーム)についたりすれば、自分も家族も、残る生涯ずっと警察の監視リストにのることになる。並んだ会衆の一列にひとりは、当局から金をもらって情報を売る密告屋だということを、誰も疑わなかった。イスラム教徒だろうが、警察のスパイだろうが、その両方だろうが、都市国家ハンブルクが不本意にも九・一一のハイジャッカー三人の潜伏場所になっていたことを、みな忘れようがなかった。当然ながら、実行犯の組織の仲間や立案者がいたことも。あるいは、世界貿易センターのツインタワーに最初に突入した旅客機の操縦者ムハンマド・アタが、この慎ましいハンブルクのモスクで、怒れる神に祈りを捧げていたこともみな憶えていた

 しかし、疑いの文化が物語を動かすのは後半だ。この小説は前半と後半に大きく分けられる。前半は個人をめぐる物語だといえる。その個人とは、ハンブルクに密入国したイッサと関係を持つことになるアナベル・リヒターとトミー・ブルーだ。

 慈善団体サンクチュアリー・ノースの弁護士であるアナベル・リヒターは、身体に拷問の傷が生々しく残るイッサが、当局に拘束され強制送還されるのを何としても阻止しようとする。彼女が深入りするのにはわけがある。法曹界で活躍する一家のなかの反逆児である彼女は、サンクチュアリー・ノースにおける活動のなかで絶望を感じていた。

無実の罪を着せる嘆かわしい裁判に延々と立ち合い、依頼人たちの恐怖の体験談が、外の世界といえば二週間の休暇で行ったイビサ島しか知らない低級官僚にいいの悪いのと裁かれるのを、悔しさに唇を噛んで聞いてきた。アナベルには、いつの日か、それまで不承不承受け入れてきた職業的、法的な原則をひとつ残らず捨てなければならないときが来る――そのような依頼人が現われる――のがわかっていたにちがいない

 ブルー・フレール銀行の経営者トミー・ブルーは、イッサとの出会いによって、まだ銀行がウィーンにあった冷戦末期に、銀行と父親になにがあったのかを直視しなければならなくなる。

あれは父のウィーンでの最後の無謀な日々、どんどんほつれはじめた鉄のカーテンの向こうから、崩壊中の悪の帝国の黒い金が大量に流れこんできていたころだった

 アナベルと彼女に惹かれていくトミーは、イッサを助けようとして、個人の力ではどうにもならないところまで追いつめられる。そこで、アナベルの前にはドイツ連邦憲法擁護庁“外資買収課”課長のギュンター・バッハマンが、トミーの前には父親と親密な関係にあったイギリス情報部員エドワード・フォアマンが現われ、それぞれの目的のために彼らを懐柔していく。


 
 
◆登場人物◆
 
アナベル・リヒター   慈善団体サンクチュアリー・ノースの弁護士
トミー・ブルー ブルー・フレール銀行の経営者
フラウ・エレンベルガー(エリ) 同銀行員
スー トミーの最初の妻
ジョージー(ジョージーナ) トミーとスーの娘
エドワード・アマデウス・ブルー トミーの父親
ウルスラ・マイヤー サンクチュアリー・ノースの理事
フーゴ アナベルの兄
イッサ ハンブルクに来た若者
メリク・オクタイ ハンブルク在住のトルコ人
レイラ メリクの母親
ギュンター・バッハマン ドイツ連邦憲法擁護庁“外資買収課”課長
エアナ・フライ 同課員。ギュンターの助手
マクシミリアン 同課員
ニキ 同課員
アルニ・モア ドイツ連邦憲法擁護庁ハンブルク支局長
オットー・ケラー 同庁の幹部
ミヒャエル・アクセルロット 合同運営委員会の幹部
ディーター・ブルクドルフ 合同運営委員会の幹部
エドワード・フォアマン(テディ・フィンドレー) イギリス情報部員
イアン・ランタン イギリス情報部員
マーサ CIAベルリン支局のナンバーツー
ニュートン 同支局員
ファイサル・アブドゥラ イスラム学者
グリゴーリー・ボリソヴィッチ・カルポフ ソ連の赤軍大佐
アナトーリー 弁護士
 
 
 

 そこで重要になるのが疑いの文化だ。この小説では、ドイツの諜報界における主導権争いが以下のように表現される。

こういう時代遅れの分類にはもう意味がないかもしれないが、“最左翼”には、国外諜報担当の伊達男ミヒャエル・アクセルロットが君臨していた。熱烈な欧州連合派で、アラブ支持者、そして、いくつかの条件つきでバッハマンの指導者だった。“最右翼”には、内務省から来た超保守主義者のディーター・ブルクドルフがいる。諜報の新組織の構造ができた暁には、彼がアクセルロットと皇帝の座を争うことになる。誰はばかることなくアメリカの新保守主義者とつき合い、ドイツの諜報コミュニティのなかで、アメリカ側の対応機関との統合推進をもっとも声高に唱える人物だった

 このふたつの勢力の違いは、それぞれが持つパイプの違いだけではない。収集される情報の質やそのとらえ方が違う。小説ではそれが、バッハマンの目を通して以下のように表現される。

愛想よく笑い、横目を使う男女の誰がこの日のバッハマンの味方で、誰が敵なのか。彼らが忠誠を誓っているのは、どんなうしろ暗い委員会や省庁、政党なのか。バッハマンが知るかぎり、怒る人々の爆弾が炸裂するのを聞いたことがある者はひと握りしかいなかったが、情報部内の覇権をめぐる静かな戦争においては百戦錬磨の兵士だった。

 九・一一後、にわかに活況を呈した諜報と関連業種の市場で、急速にのし上がってきたこれらの管理者たちに、バッハマンが心から聞かせてやりたい講義がもうひとつあった。ベルリンにまた呼び戻された日のためにこっそり取ってある“バッハマンのカンタータ”だ。すなわち、戸棚にどれほどスパイの最新のおもちゃをしまっていようと、魔法の暗号をどれだけたくさん解読しようと、音のひずんだ会話をどれだけ傍受して、敵の組織の構造や、そもそも構造がないことや、内輪もめについてすばらしい推論をしようと、はたまた、飼い慣らされたジャーナリストが、偏った手がかりやこっそりポケットに入れる褒美と引き替えに、怪しげな情報をどれほど提供しようと、最終的に頼りになる知識を与えてくれるのは、胡散臭い導師や、恋に破れた秘密工作員や、賄賂しか頭にないパキスタンの防衛技術者、昇進に見放されたイラン軍の中堅幹部、ひとりで眠れなくなった潜伏員たちなのだ。彼らが提供する確実な情報がなければ、あとは地球を滅ぼす法螺吹きとイデオローグと政治狂いに食わせる飼葉でしかない

 この文章は、イラク戦争を前にして、どうしても戦争がしたいアメリカが、国外追放処分を受けたイラク人で、“カーブボール”という暗号名を持つ人物の極めて信憑性が薄い大量破壊兵器の情報に飛びついたことを思い出させるかもしれない。

 この小説では、同じ情報に対してふたつの勢力からまったく異なる判断が下される。監視対象者の活動の95パーセントがシロで、5パーセントがクロだった場合、その人物をどう位置づけるのか。CIAベルリン支局のナンバーツーであるマーサは「わたしなら五パーセントで手を打つわ」と言う。これに対して、バッハマンの指導者であるアクセルロットは「いままでの話の行間を読むと、どうだろう、次のようなことにならないかね。適切な誘因を与え、圧力と不運を適切に混ぜてぶつければ、<道しるべ>は平和を実現する理想的なエージェントになりうると?

 アメリカの正義で世界を仕切ろうとするCIAの姿勢に同調してしまえば、世界はシロとクロ、敵と味方の二元論に支配されてしまう。バッハマンの一派は、正確な情報に基づいて第三の道を切り拓こうとする。この物語では、そんなふたつの価値観が激しくせめぎ合い、イッサ、アナベル、トミーの運命も左右することになる。

《引用文献》
『9・11以後の監視』 デイヴィッド・ライアン ●
田島泰彦監修 清水知子訳(明石書店、2004年)
『誰よりも狙われた男』 ジョン・ル・カレ ●
加賀山卓朗訳(早川書房、2013年)

(upload:2014/10/05)
 
 
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