[ストーリー] ドイツのハンブルクにやって来た痩せぎすの若者。彼はイッサという名前で、トルコ人の家に滞在することになる。イッサは体じゅうに傷跡があり、密入国していた。そんな折、銀行の経営者トミー・ブルーのもとに、一人の女性から電話がかかってきて、会うことになる。彼女の名前はアナベル・リヒター、慈善団体の弁護士だった。彼女は、依頼人のイッサがあなたに救ってもらえると思っていると言った。その後ブルーは自分の銀行に、ある人物の秘密口座が存在することを知る。
その頃、ドイツの諜報界はイッサを追っていた。イッサはチェチェン出身の過激派として国際指名手配されていたのだ。ドイツの諜報界が主導権争いに揺れ、英米情報部が介入してくる中、練達のスパイ、バッハマンは、イッサに迫っていく。そして、命を懸けてイッサを救おうとするアナベルと、彼女に魅かれ始めたブルーも、その暗闘の中に巻き込まれていく。
ジョン・ル・カレの『誰よりも狙われた男』を読みながら、最初に筆者が思い出したのは、デイヴィッド・ライアンの『9・11以後の監視』のなかにある以下のような記述だ。
「9・11以後、公正な社会ではあらゆる人々に平等な機会が開かれているという、尊重されるべき信条でさえ、雲行きが怪しくなっている。もう一つのニューヨークの名高いシンボルである自由の女神も、そこで嘆いているに違いない。なるほど、確かにアメリカ合衆国はこれまで一度も平等な社会を求める気高い要求に応じることはなかった。だが、2001年の事件以来、すでにあった不平等と不均衡が拡大してきている。戦時中は、他国や敵に対する敵意に満ちた防衛が高まり、疑いの文化が台頭し、誰もそれを免れることはできない。今回の「戦争」も例外ではない。相互信頼という社会の基盤はこうして損なわれつつある」
この小説の舞台はドイツのハンブルクだが、アメリカに広がった“疑いの文化”と無関係ではない。それは物語の導入部にある以下のような記述から容易に察することができる。
「九・一一以来、ハンブルクのモスクは危険な場所になっていた。まちがったところに行ったり、場所はよくてもまちがった導師(イマーム)についたりすれば、自分も家族も、残る生涯ずっと警察の監視リストにのることになる。並んだ会衆の一列にひとりは、当局から金をもらって情報を売る密告屋だということを、誰も疑わなかった。イスラム教徒だろうが、警察のスパイだろうが、その両方だろうが、都市国家ハンブルクが不本意にも九・一一のハイジャッカー三人の潜伏場所になっていたことを、みな忘れようがなかった。当然ながら、実行犯の組織の仲間や立案者がいたことも。あるいは、世界貿易センターのツインタワーに最初に突入した旅客機の操縦者ムハンマド・アタが、この慎ましいハンブルクのモスクで、怒れる神に祈りを捧げていたこともみな憶えていた」
しかし、疑いの文化が物語を動かすのは後半だ。この小説は前半と後半に大きく分けられる。前半は個人をめぐる物語だといえる。その個人とは、ハンブルクに密入国したイッサと関係を持つことになるアナベル・リヒターとトミー・ブルーだ。
慈善団体サンクチュアリー・ノースの弁護士であるアナベル・リヒターは、身体に拷問の傷が生々しく残るイッサが、当局に拘束され強制送還されるのを何としても阻止しようとする。彼女が深入りするのにはわけがある。法曹界で活躍する一家のなかの反逆児である彼女は、サンクチュアリー・ノースにおける活動のなかで絶望を感じていた。
「無実の罪を着せる嘆かわしい裁判に延々と立ち合い、依頼人たちの恐怖の体験談が、外の世界といえば二週間の休暇で行ったイビサ島しか知らない低級官僚にいいの悪いのと裁かれるのを、悔しさに唇を噛んで聞いてきた。アナベルには、いつの日か、それまで不承不承受け入れてきた職業的、法的な原則をひとつ残らず捨てなければならないときが来る――そのような依頼人が現われる――のがわかっていたにちがいない」
ブルー・フレール銀行の経営者トミー・ブルーは、イッサとの出会いによって、まだ銀行がウィーンにあった冷戦末期に、銀行と父親になにがあったのかを直視しなければならなくなる。
「あれは父のウィーンでの最後の無謀な日々、どんどんほつれはじめた鉄のカーテンの向こうから、崩壊中の悪の帝国の黒い金が大量に流れこんできていたころだった」
アナベルと彼女に惹かれていくトミーは、イッサを助けようとして、個人の力ではどうにもならないところまで追いつめられる。そこで、アナベルの前にはドイツ連邦憲法擁護庁“外資買収課”課長のギュンター・バッハマンが、トミーの前には父親と親密な関係にあったイギリス情報部員エドワード・フォアマンが現われ、それぞれの目的のために彼らを懐柔していく。 |