この場面を観ながら筆者は、デイヴィッド・ライアンの『9・11以後の監視』のなかの以下のような記述を思い出した。
「9・11以後、公正な社会ではあらゆる人々に平等な機会が開かれているという、尊重されるべき信条でさえ、雲行きが怪しくなっている。もう一つのニューヨークの名高いシンボルである自由の女神も、そこで嘆いているに違いない。なるほど、確かにアメリカ合衆国はこれまで一度も平等な社会を求める気高い要求に応じることはなかった。だが、2001年の事件以来、すでにあった不平等と不均衡が拡大してきている。戦時中は、他国や敵に対する敵意に満ちた防衛が高まり、疑いの文化が台頭し、誰もそれを免れることはできない。今回の「戦争」も例外ではない。相互信頼という社会の基盤はこうして損なわれつつある」
さらに、音楽も重要な役割を果たしている。ウォルターは、ピアニストだった妻の死以来、他者との関係を拒み、心を閉ざすようになった。そのため亡妻への想いからピアノを習おうとしても、教師を受け入れられない。このトラウマは9・11を連想させるだろう。だが、ジャンベ(アフリカン・ドラム)奏者のタレクと出会った彼は、西洋の音楽とは違う響きやリズムに魅了されるだけではなく、ジャンベを通して生身の人間に心を開いていく。
それから、“訪問者”を意味する原題も見逃せない。映画の導入部で、ピアノの教師や自分の生徒という訪問者に対して壁を作っていたウォルターは、やがてタレクやモーナを積極的に受け入れるようになる。そして、セントラルパークでのセッションや、タレクが収監されている入国管理局の拘置所では、立場が逆転する。彼は、自分自身で訪問者の喜びと絶望を体験することで変貌を遂げ、新たな人生を歩み出すのだ。 |