墜ちてゆく男 / ドン・デリーロ
Falling Man / Don DeLillo (2007)


2009年/上岡伸雄訳/新潮社
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(初出:web-magazine「e-days」 Into the Wild 2009年3月30日、若干の加筆)

 

 

9・11の記憶から自分たちが何者であるのかを探る

 

 ドン・デリーロの『墜ちてゆく男』は、9・11直後のWTC周辺から始まり、その後の物語が綴られていく。WTCで働くエリート・ビジネスマンのキースは、テロで身体中に傷を負いながらも、崩壊するWTCから生還する。瓦礫のなかを彷徨う彼が向かったのは、自分のアパートでも病院でもなく、別居中の妻リアンと息子ジャスティンが暮らすアパートだった。リアンは彼を受け入れ、再び3人家族の生活が始まる。

 この小説の鍵を握るのは“記憶”だ。物語には、記憶に関わる様々なエピソードが散りばめられている。

 キースは一方で、フローレンスという黒人女性と不倫の関係に陥る。彼はWTCから避難するときに、無意識のうちに他人のブリーフケースを持ち出していた。その持ち主が、フローレンスだった。ふたりは、自分たちだけにしか理解できない体験、その記憶をたぐり寄せ、語り合ううちに親密になっていく。

 キースの妻リアンは、認知症の初期段階にある老人たちのケアをしている。それは父親の悲劇と無関係ではない。彼女の父親は、認知症を苦にして自殺しているのだ。

 また、息子のジャスティンと友だちの間では、“ビル・ロートン”という名前が流通し、大人には知られてはいけない秘密になっている。ビル・ロートンとは実はビンラディンのことで、子供たちにはそのように響き、定着していたのだ。

 さらに、物語に出てくる“有機榴散弾”にも、記憶に対する関心が表れている。キースを手当てした医師は、自爆テロと有機榴散弾についてこのように説明する。「テロリストは爆発して、文字通り粉々になって、肉や骨の破片がすごい勢いで飛び散る。だから、破片がへばりついちゃうんだって。届く範囲内にいた人たちの体に埋め込まれちゃうんだよ。信じられる? 女子学生がカフェで自爆テロに遭い、生還する。それから数ヵ月して、彼女の体から肉の小さな粒が見つかる。人間の肉体の破片が肌に埋め込まれてたんだ。そういうのは有機榴散弾って呼ばれている

 そして、もうひとつ見逃せないのが、“落ちる男”として知られるパフォーマンス・アーティストの存在だ。彼は人目につく場所を選び、スーツとネクタイと革靴を身につけ、命綱で建造物から逆さまにぶら下がり、燃え上がるWTCから飛び降りた人々を再現する。というよりも、厳密にいえば人々ではなく、特定の人間を再現する。


◆プロフィール◆

ドン・デリーロ
1936年、ニューヨークのブロンクスで生まれる。1971年、『アメリカーナ』でデビュー、1985年に『ホワイト・ノイズ』で全米図書賞を受賞、1988年、『リブラ 時の秤』が全米ベストセラーとなり、名実ともに現代アメリカ文学最大の作家となった。1997年、大作『アンダーワールド』が全米図書賞の最終候補に。以後毎年のようにノーベル文学賞候補としてその名が挙がる。2001年に『ボディ・アーティスト』、2003年に『コズモポリス』を発表、4年ぶりの新作が『墜ちてゆく男』である。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の際は、WTC崩落直後にグラウンド・ゼロへと足を運んだという。

 

 

 
 

 小説には、落ちる男についてこのような記述がある。「落下している最中の彼の姿勢については議論が沸き起こっていた。彼が宙吊りになっているときに維持している体勢のことである。これはある特定の男の姿勢を意図しているのだろうか? ワールドトレードセンターの北棟から落下しているところを撮影された男? 頭を下にし、腕はわき腹にくっつけ、片脚を曲げていたあの男だろうか? ぼんやりと浮かぶタワーの柱のパネルを背景に、永遠に自由落下の状態に置かれている男?

 この人物の写真はあまりにも衝撃的だったので、覚えている人も少なくないだろう。筆者は、この小説の原題(“Falling Man”)と同じタイトルの映画『フォーリング・マン』のことを思い出していた。ヘンリー・シンガーが監督したこのテレビのドキュメンタリー番組は、日本でも2006年にDVDがリリースされている。この作品は、小説を読むうえで参考になるだろう。

 『フォーリング・マン』では、小説で言及されているあの1枚の写真から9・11が再検証されていく。9・11の翌日にその写真を掲載した新聞社には、犠牲者の尊厳を踏みにじっているとか、プライバシーを侵害しているといった抗議が殺到し、写真は二度と掲載されることがなかった。その後、巷ではレスキュー隊の勇姿ばかりが持てはやされるようになり、WTCから飛び降りた多くの人々の存在は黙殺されていく。

 作家のトム・ジュノーは、そんな状況に疑問を覚え、現実と向き合うために写真の男性に関する取材を開始し、その記事を2003年に「Esquire」に発表した。このドキュメンタリーの構成は、その記事がもとになっている。ジュノーは、映画にも登場し、取材の過程を再現していく。彼が飛び降りた人々のことを検死局に問い合わせると、彼らは爆風で吹き飛ばされたのであって、飛び降りた人間は一人もないという答が返ってくる。まさに事実は歪曲され、愛国心で塗り固められていくのだ。

 結局、ジュノーは、男性の正体を突き止めるが、断定を避ける。それは、その男性の姉の言葉に心を動かされるからだ。「彼が誰なのかを探るよりも、自分たちが何者なのかを写真から感じとるべきです」。確かに、外部の敵やナショナリズムによって規定されるのではなく、あらゆる繋がりを断たれて生と死の狭間に留まる男性の姿を通して、自分たちを見つめ直すことには大きな意味がある。

 デリーロはこの小説でそれを実践しているといってもよいだろう。たとえば、WTCから飛び降りた人間の存在を黙殺し、人々がナショナリズムによってひとつになるとき、彼らは何者になるのか。この小説には、ひとつの答えが示されている。

 キースの妻リアンは、20年前にカイロを旅して、群集に呑み込まれそうになったときのことを思い出す。「そのとき彼女が感じ始めたのは――どうしようもない無力感はさておき――自分が他者との関係において何者であるかという、研ぎ澄まされた感覚だった。他者とはこの何千もの人々――秩序だっているが、すべてを包み込むようなもの。(中略)そして彼女は自分自身のことを群集に映し出された姿として見ないわけにはいかなくなった。何であれ、彼らが照り返すもの。彼女の顔、目鼻立ち、肌の色、つまりは白人という存在に。「白い」ということが彼女の根本的な意味、存在自体となった。つまりは、彼女が何者であるか――本当にその通りではなくても、同時に、そういう人でしかあり得なくなってしまう。彼女には特権があり、超然として、自己中心的で、白人である。それは彼女の顔に現れていた。教育がありながら無知で、怯えている。彼女はステレオタイプのもつ苦々しい真実をすべて感じた

 キースとリアン、そして、落ちる男は、世界を単純化するそんな二元論に取り込まれまいとするように、それぞれに個人として9・11と向き合おうとする。この小説には、三者が交錯する印象的な場面がある。コミュニティ・センターにおける集会から帰宅しようとするリアンと、彼女を迎えに行こうとするキースと息子を交互に描いていく場面だ。

 そのときリアンは、認知症が悪化したある老人の世界を幻視している。「物事が崩れていく瞬間の、息を呑むような感覚――道路が、名前が、方向や位置のありとあらゆる感覚が、そして固定した記憶の網の目がバラバラになっていく」。一方キースは、妻にフローレンスとの関係のことをどのように告白すべきなのか、心のうちで苦悩している。そんな彼らが徐々に接近していくとき、落ちる男が電車のプラットフォームからジャンプする。

 そこで彼らは、なにか答えを見出すわけではないが、この場面は小説の終盤の伏線となる。その終盤では、物語の始まりよりもさらに時間を遡って、9・11の瞬間が、キースとテロリストのハマドというふたりの視点から描き出される。そのときふたりは、二元論から最も遠い場所にいるのだ。


(upload:2009/05/20)
 
 
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