■■虚構が現実を凌駕する『ブロードウェイと銃弾』■■
この実話は、そのまま受けとめるならむしろアレンの84年の作品『ブロードウェイのダニー・ローズ』の方を想起させることだろう。この映画ではアレン扮するダニーが、ショービジネスとギャングの世界の狭間に切り開かれるシュールな冒険を経て、最後に現実に引き戻される。しかし『ブロードウェイと銃弾』では、この実話がひとたび解体されアレン独自の世界へと再構築されている。再構築された世界は、一見するともはやその内容をジョルスンと結びつけて考える必要がないもののようにも見えるが、果たしてそうだろうか。
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この映画のオープニングに流れるのは、『ジャズ・シンガー』のなかで駆け出しのシンガー、ジョルスンが素顔で歌う<Toot, Toot,
Tootsie!(Good-bye)>である。それにつづくギャングの血なまぐさい抗争の場面では、同じように黒塗りのメイクで当時人気だったユダヤ系の芸人エディ・カンターの歌う<Ma(He's
Making Eyes At Me)>が流れる。ギャングのボスが彼の愛人であるショーガールを楽屋に訪ねる場面では、このボスが彼女に黒真珠をプレゼントするが、少々頭の弱い彼女は、真珠は白いものと信じており、その価値がわからないというやりとりがある。これは明らかに黒塗りのメイクを暗示している。
さらにこの映画では、ギャングのボスの家で働く太った黒人のメイドが際立つが、彼女の存在もジョルスンに繋がる。『ジャズ・シンガー』でスクリーンに登場したジョルスンは"the
mammy singer"とも呼ばれた。というのも、この映画では、彼が自分に愛情を注ぎつづけてくれた母親に<My Mammy>を熱唱するところがクライマックスになっているからだが、彼は黒塗りのメイクでこの歌を歌い、"mammy"という言葉は黒人のばあやも意味していた。そこでこれ以後、黒人の女優が映画に出る場合にはその多くがこの"mammy"のイメージをまとうことになるのである。
ちなみに人種に関して敏感なアメリカではアレンの作品は、黒人を登場させないということだけで非難を浴びることが多々あった。そしていざ登場してみると、『カイロの紫のバラ』も『ハンナとその姉妹』もこの映画もすべてメイドだということでまたまた非難を浴びた。アレン自身は、最新作で黒人の娼婦を登場させるくらいだからそんな批判は気にもしていないのだろうが、このメイドについては、彼の頭のなかに無意識のうちにmammyのイメージが深く焼きつけられていることを物語っているのではないかと思う。
そして最後は、劇作家デイヴィッドと大女優ヘレンが、彼女の家のテラスからブロードウェイを見下ろしながら会話する場面。彼が「あなたの街だ」と言うと、彼女は「わたしの街、でもあなたに譲るわ、ほしければ」と答える。これはジョルスンの伝記映画『ジョルスン物語』のなかの名台詞「ブロードウェイ?
あそこはぼくのものだ。欲しければ君にあげよう」からきている。このように見てくると、駆け出しの素顔のシンガーから黒真珠、mammy、そしてブロードウェイの頂点という流れはジョルスンの軌跡をよく物語っている。これは決してただの遊びではないだろう。
ジョルスンの存在とこの映画の展開は深いところで共鳴している。ジョルスンは黒塗りのメイクによってユダヤ系のアイデンティティからまったく自由になり、別人であるかのように歌い踊り、道化となることができた。メイクをした彼は虚構の存在ではあるが、その虚構は現実を凌駕し揺るぎないものでもあった。アレンは『ブロードウェイと銃弾』のなかで、デイヴィッドとギャングのチーチのやりとりを通して非常にユニークな視点で、そんなふうに現実を凌駕してしまうような虚構を生きることのリアリティを浮き彫りにしているのである。
■■マルクス兄弟とアレン映画の虚構の結びつき■■
さらにユダヤ系の芸人としてのアイデンティティということでいえば、マルクス兄弟も無視することはできない。それは、アレンが監督デビュー以来、ほとんどどの作品でマルクス兄弟(特にグルーチョ)を引用しつづけているからということもあるが、筆者にはマルクス兄弟はいまやアレンの世界のなかで虚構と結びつくある種の象徴になっているように思えてならないからだ。
最初にふとそんなことを思ったのは、『ハンナとその姉妹』を観たときのことだ。この映画でアレン扮する放送作家ミッキーは、死にかけるほどの絶望を味わったあげくに、映画館でマルクス兄弟の『我が輩はカモである』を観て、その世界のなかに不思議な救いを見出し、肩の荷が下りる。そして子供ができない身体であったはずなのに、結婚したホリーから子供ができたことを伝えられるところで映画が終わる。
まあこれだけであれば洒落た結びというぐらいにしかみえないかもしれない。ところが、『ブロードウェイと銃弾』にも、子供ができたことを伝えるという行為と虚構と現実の転倒が繋がる印象深い場面がある。この映画でギャングのチーチにとって、舞台劇という虚構は現実を凌駕するものになっている。そんな彼は、虚構に現実が侵入するかたちで撃たれてしまうが、息を引きとる前にデイヴィッドに向かって、劇の最後でヒロインが子供ができたことを相手に伝える場面で幕にするように頼む。
チーチは現実の力によって命を奪われるにもかかわらず、彼自身は完全に虚構の世界に踏みとどまり、しかも、子供ができたことを伝えるというエピソードによって、現実を凌駕する虚構がなおも成長しつづけることが暗示される。そこから振り返ると、『ハンナとその姉妹』での『我が輩はカモである』の引用は、アレンが虚構の世界へと踏みだす糸口であったように思えるのである。
さらに『世界中がアイ・ラヴ・ユー』でも、マルクス兄弟と虚構の結びつきが露になっている。マルクス兄弟の『御冗談でショ』で歌われる曲をそのままタイトルにしたこの映画では、必死に虚構にすがりつく哀しい男の姿が浮かび上がってくる。
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アレン扮する作家ジョーは、精神分析医と患者の会話を盗み聞きしている娘から情報を仕入れ、患者である美女にとって理想の男に変身しようとする。自分を捨てて虚構の存在になろうとするのだ。しかもその夢が破れても現実には立ち返らない。グルーチョのテーマソングである〈スポールディング隊長万歳!〉を使った華麗なダンス・シーンを経て、今度は未練のある先妻を誘い、過去の幻想に浸るのである。
90年代のアレン作品のテーマは、人はどのようにして虚構を選びとり、どのように虚構を生きていこうとするかということになるだろう。アレンの最新作『地球は女で回ってる』は、そんな90年代のアレンが見事に集約された作品といってよいだろう。
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この映画の主人公は売れっ子の小説家だが、現実の世界では周囲から孤立しかけている。というのも彼は、別れた妻たち、愛人、友人、家族のプライバシーをほとんどそのまま滑稽な小説の題材にしているからだ。映画はそんな主人公の現実の世界と虚構の世界を、別のキャストを使って対置するように描く。
彼は現実を食い物にしながら、彼が創造した人物たちとともに、それがまるで現実であるかのように虚構の世界を生きている。つまり、彼は現実逃避していると同時に、彼が逃避した虚構の世界が一人歩きを始め、リアリティにおいて現実を越えてしまうのである。
ウディ・アレンは、現実なるものを解体すると同時に彼のユダヤ系、そしてユダヤ系芸人としてのアイデンティティをも掘り下げ、さらに現実遊離した虚構の世界の探求へと邁進する。この現実と虚構をめぐる実験からは、おそらくこれからもより挑発的で野心的な作品が生み出されることになるだろう。