セレブリティ
Celebrity


1998年/アメリカ/モノクロ/114分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:『セレブリティ』劇場用パンフレット、若干の加筆)

アレンは虚構に溺れ、虚構に祝福される

 毎年コンスタントに映画を作りつづけるウディ・アレンの作品では、常に現実と虚構がせめぎあっている。その虚構は、恋人同士や夫婦といった男女の関係から生まれる勝手な思い込みであったり、小説や演劇、映画などがドラマに絡むことによって生まれるフィクションの世界であったり、神の存在や罪の意識をめぐる宗教的な世界であったりと、実にバラエティに富んでいる。

 アレンの世界におけるこの現実と虚構のせめぎあいを複雑で興味深いものにしているのは、彼のプライベートな世界と映画の世界との関係だ。彼の映画では、プライベートな世界が様々なかたちでドラマに反映されているが、これは彼がもともとユダヤ系のコメディアンであったことと無縁ではないだろう。

 ユダヤ系のコメディアンのスタイルには、自分自身をネタにして自分を笑うという伝統があることは比較的よく知られている。だが、映画に進出したアレンは、自分を笑うだけではなく、自分と映画の関係を見つめ、現実と虚構というテーマを発展させ、様々な設定でそれを掘り下げているのだ。

 当然、彼のプライベートな世界と映画の世界には深い繋がりがある。そんなことをあらためて強く感じたのが、アレンと彼の公私にわたる長年のパートナーであったミア・ファローの養女スン・イーとのスキャンダルだ。このスキャンダルによって、アレンとミアの関係は破局し、実子の養育権をめぐって彼らのあいだに繰り広げられた法廷での争いはアレンの敗北に終わり、彼のプライベートな世界は世間の大きな注目を浴びることになってしまった。

 普通ならこんなトラブルに見舞われれば、映画作りが停滞して当然というものだが、アレンは相変わらずコンスタントに映画を作りつづけるばかりか、その映画のなかで、現実と虚構の力関係が大胆な変化を見せるようになった。以前の作品では、登場人物たちがドラマのなかで虚構の世界にとらわれていくことがあっても、最終的には現実に目覚めた。ところが、ミアとの関係を解消する頃から、ドラマのなかで虚構の力が優勢になり、虚構が現実を凌駕してしまうような展開が見えてくるようになったのだ。

 たとえば、アレンが久し振りにダイアン・キートンとコンビを組んだ『マンハッタン殺人ミステリー』では、単なる思い込みだと思っていた完全犯罪の疑惑が次第に現実のものになっていく。ただこの物語の場合は、ありそうな話ではあるし、アレン自身もこう語っている。「現実逃避の映画だね。まあ、そういう点では成功していたけど、僕があえてやるべき作品ではない気もした」(『ウディ・オン・アレン』)。本人も満足していないようだが、このコメントのなかで筆者がぜひとも注目しておきたいのが、“現実逃避”という言葉だ。この言葉は、以後のアレン作品の魅力を読み解くひとつのキーワードになっているように思える。

 それはこの作品につづく傑作『ブロードウェイと銃弾』を観るとよくわかる。この映画の主人公は、若くて野心的な劇作家だが、彼の世界観は、女優の用心棒をしているギャングと出合うことによって大きく変わる。劇作家はこのギャングが作家として自分とは比べ物にならない才能を持っていることを知る。だが、虚構であるはずの舞台の世界は、そのギャングにとっては現実を越えるリアルな世界であって、それゆえ彼は現実を越えた舞台の世界のために命を落としてしまう。そして、そんな凄まじい現実と虚構の転倒を目の当たりにした劇作家は、自分が舞台という虚構の世界に現実逃避していただけだと悟り、故郷に逃げ帰る。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ウディ・アレン
Woody Allen
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
Sven Nykvist
編集 スーザン・E・モース
Susan E. Morse
 
◆キャスト◆
 
リー・サイモン   ケネス・ブラナー
Kenneth Branagh
ロビン・サイモン ジュディ・デイヴィス
Judy Davis
ブランドン・ダロウ レオナルド・ディカプリオ
Leonardo DiCaprio
ニコル・オリヴァー メラニー・グリフィス
Melanie Griffith
ノーラ ウィノナ・ライダー
Winona Ryder
スーパーモデル シャーリーズ・セロン
Charlize Theron
トニー ジョー・マンテーニャ
Joe Mantegna
ヴィッキー グレッチェン・モル
Gretchen Mol
ダロウの取り巻き サム・ロックウェル
Sam Rockwell
-
(配給:松竹富士 )
 
 
 


 この映画は、ふたりの登場人物を通して、創作の世界が一方で現実を凌駕してしまうような魔力を秘めていると同時に、現実逃避の場所ともなることを鮮やかに描きだしている。そして、『地球は女で回ってる』では、そんな虚構をめぐるふたつのヴィジョンの境界すらわからなくなってしまう。この映画の主人公は売れっ子の小説家だが、現実の世界では周囲から孤立しかけている。というのも彼は、別れた妻たち、愛人、友人、家族のプライバシーをほとんどそのまま滑稽な小説の題材にしていたからだ。映画はそんな彼の現実の世界と虚構の世界を、別のキャストを使って対置するように描き、彼は、現実を食い物にしながら、彼が創造した人物たちとともに虚構の世界をまるで現実であるかのように生きている。つまり、彼は現実逃避しているのだが、逃避した虚構の世界が現実を越えてしまってもいるのだ。

 アレンの最新作であるこの『セレブリティ』は、こうした変化を踏まえてみると非常に興味深い。この映画は、前作『地球は女で回ってる』と同じように登場人物や台詞が多いわりには、ドラマの構造がシンプルに見える。だが、実は現実と虚構、あるいは現実逃避をめぐって前作に負けないくらい複雑な構造を持った物語になっていると思う。

 このドラマの軸になるのは、うだつのあがらない芸能記者サイモンと彼と離婚した元教師のロビンだが、離婚後の彼らの運命にはいかにもアレンらしい展開がある。小説家を目指しながら挫折したサイモンは、芸能記者をやりながら何とかして脚本を売り込み、有名人の仲間入りをしようと奮闘する。そのために大女優やアイドル・スターに接近するが、時としていい思いをすることはあっても、結局振り回されるばかりで、望みは叶わない。一方、有名人を軽蔑していたロビンは、TVプロデューサーのトニーと出合ったことで人間が変わっていく。厳格なカトリックの家に育ち、セックスに抵抗があったにもかかわらず、セックスの技術を磨いて、情熱的なトニーに応えようとするのだ。

 そんなふたりの奮闘には、アレンの近作に通じる要素がある。たとえば、『世界中がアイ・ラブ・ユー』には、主人公の作家が、精神分析医と患者の会話を盗み聞きしている娘から情報を仕入れ、患者である美女にとって理想の男に変身しようとする展開があった。彼は本来の自分を捨てて虚構の存在になろうとするわけだ。『セレブリティ』のサイモンとロビンもまた、同じように周囲や相手が望むものになろうと奮闘する。先述した『ブロードウェイと銃弾』には、野心を持った劇作家が、強いコネもあるのに望みを叶えられないのに対して、野心などかけらもないギャングが素晴らしい才能を発揮するというコントラストがあったが、それはサイモンとロビンの皮肉な運命にも通じている。

 しかし、この映画は、そんな彼らの対照的な運命を通して有名人の世界を描く作品ではない。この映画でまず印象に残るのは、美しいモノクロの映像だが、果たしてこの映像は何を暗示しているのだろうか。筆者は、実はこのドラマが最初からすべて虚構の産物であることを暗示していると思う。それがどんな虚構であるかといえば、サイモンが一念発起して完成し、自ら傑作と信じる小説のなかの世界だ。

 その小説の原稿は、激怒した女性編集者ボニーによって海に投げ捨てられてしまうために、具体的な内容は明らかにならない。しかし映画の終盤の会話で、少なくとも「全員が有名人で全員が祝福される物語」であったことはわかる。それは、ラストで映画のプレミアに有名人たちが全員集合し、祝福されるこの映画を意味している。主人公のサイモンだけはプレミアでも悲惨で祝福されているとは言えないが、もちろん小説が発表されれば、彼も有名人となり、祝福されるはずだったのだ。

 そんなことを考えたくなるのは、まずこの映画のモノクロ映像があの『マンハッタン』を想起させるからだ。『マンハッタン』は、現実のマンハッタンの街をとらえた映像に、いままさに小説を書きだそうとしている主人公のナレーションが重なるところから始まる。そして、映画のなかで愛する街をさまようこのロマンチストは、現実を何とか彼が求める小説の世界に引き込もうと奮闘する。主人公は最後にははたと我に返ることになるが、いまのアレンは違う。

 『地球は女で回ってる』では、主人公の現実と虚構の世界の人間関係が並置され、最終的に彼は、現実の世界で孤立し、虚構の人物たちに祝福されることになる。アレンはこの『セレブリティ』で、そんな複雑な構成を何ら使うことなく、同じことを表現している。この映画は、観客を引き込む現実的で自然な世界を作りながら、虚構を暗示し、気づかぬうちに虚構のベールを通して、欲望に振り回されたり、現実逃避する人間の心理について考えさせてしまう。

 そしてもうひとつ、最後まで孤独な主人公サイモンには監督アレンの感情が投影されているに違いない。監督としてのアレンは、映画という虚構の世界を構築しているあいだ、自分が作りあげたキャラクターたちと楽しい時間を過ごすことができる。だが、映画が完成してしまえば彼らと別れなくてはならない。

 この映画のラストで、カメラはプレミアに集まった登場人物たちをみんな映しだし、そして上映が始まる。もちろん上映される作品は、この映画の冒頭で撮影されていた映画だが、この上映の始まりは、この映画の終わりを象徴的に表現している。それは映画を作った人間にとって、愛すべき登場人物たちとの別れの瞬間でもある。

 そういう意味で、この映画の冒頭と最後に流れるベートーヴェンの<運命>と映像に浮かび上がる“HELP”の文字は非常に印象深いものがある。登場人物たちとの別れは運命であるが、それは、現実から虚構へとますます深く入り込んでいくアレンにとっては、助けを求めたくなるくらいに辛いことであるからだ。それゆえに彼は、コンスタントに映画を作りつづけるのだ。

《参照/引用文献》
『ウディ・オン・アレン――全自作を語る』スティーグ・ビョークマン●
大森さわこ訳(キネマ旬報社、1995年)

(upload:2009/06/14)
 
《関連リンク》
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