ウディ・アレン
Woody Allen


私の中のもうひとりの私/Another Woman――――――――1988年/アメリカ/カラー/80分/ヴィスタ
ウディ・アレンの重罪と軽罪/Crimes and Misdemeanors――1989年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ
ブロードウェイと銃弾/Bullets over Broadway――――――1994年/アメリカ/カラー/99分/ヴィスタ
世界中がアイ・ラヴ・ユー/Everyone Says I Love You―――1996年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
地球は女で回ってる/Deconstructing Harry―――――――1997年/アメリカ/カラー/96分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「E/Mブックス3 ウディ・アレン」、若干の加筆
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現実と虚構がせめぎあうアレンの世界

 

 ウディ・アレンの映画では、様々なレベルで常に現実と虚構の世界がせめぎあっている。この虚構とは、登場人物が憧れていたり、あるいは自ら作りあげる映画、舞台劇、小説の世界であることもあれば、男女関係のもつれなどがきっかけとなって膨らんでいく思い込みや妄想の類であることもある。現実とこうした虚構の世界の関係は、アレンの新旧の作品では対照的といってもいいほどに大きな違いを見せつつある。

 以前のアレン作品では、登場人物がどんなに虚構の世界にのめり込もうとも、その背景には揺るぎない現実という基盤があり、最終的に彼らは現実に戻ってくる。『ボギー!俺も男だ』(この作品はハーバート・ロス監督だがアレンの世界と見て差し支えないだろう)の主人公アランも『カイロの紫のバラ』の主人公セシリアも、それぞれに映画という虚構の世界にどっぷりと漬かり、そこで特別なロマンスを体験するが、しかし最後には現実の世界を受け入れなければならない。

 『アニー・ホール』の主人公アルビーは、アニーとの体験をもとに台本を書くが、その虚構の世界のドラマをハッピーエンドで結び、芸術の世界だけでも理想的な結末にしたいと述懐する。『マンハッタン』の冒頭では、現実のマンハッタンの映像といままさに小説を書きだそうとしている主人公アイザックのナレーションが重ねられ、愛する街を彷徨うロマンティストは、現実を何とか彼が求める小説の世界に引き込もうと奮闘するが、最後にははたと我に返ることになる。

 これに対して90年代のアレン作品では、現実と虚構の関係がほとんど転倒してしまい、極端に言えば虚構の世界が基盤になり、人間が虚構の世界を生きることの意味を追求しているように思えるのだ。とはいうものの、これは現実と虚構をめぐるアレンの世界観が、ある時期を境に突然変化したということではない。新旧の作品を対比すれば大きな違いではあるが、アレンにしてみれば、コンスタントに映画を作りつづけ、現実と虚構をめぐる実験を繰り返していくうちに、自ずと見えてきたものを受け入れてきた結果にすぎないということだ。

■■現実が虚構を模倣するのか、虚構が現実を模倣するのか■■

 そんなアレンの変化の兆しは、86年の『ハンナとその姉妹』、88年の『私の中のもうひとりの私』、89年の『重罪と軽罪』あたりの作品に見ることができる。

 たとえば『私の中のもうひとりの私』には、現実と虚構をめぐるささやかではあるが印象的な転倒がある。ヒロインはこれまで充実した人生を送ってきたと信じていたが、隣室の精神分析医のクリニックからもれてくる患者と医師の会話を耳にしたことがきっかけとなって、過去の自分を見つめなおす奇妙な旅を始める。

 そんな旅を経て現在の自分に立ち返ったとき、これまで自分を支えてきた現実はほとんど崩壊している。そこで彼女は、昔彼女に想いを寄せていた友人が書いた小説のことを思いだし、彼女をモデルにしたという人物が登場する部分を読みふけり、フラッシュバックによって過去が生き生きとよみがえってくる。

 もちろんこの作品でも結局ヒロインは現実を生きていかなければならないわけだが、自分を立て直すために彼女が過去や現在から選びとる現実は、これまでとは違う現実であるに違いない。ということは、現実はもはや揺るぎないひとつのものではなくなり、人間の選択によって変化する不確かなものへと移行することにもなる。

 『重罪と軽罪』では、現実と虚構の境界がさらに曖昧なものになっていく。この作品では、シリアスなドラマとコミカルなドラマが平行して綴られるが、その狭間に挿入される映画の使い方が印象に残る。まずシリアスなドラマの展開があり、続いて『スミス夫妻』や『拳銃貸します』などの映画から、同じようなシチュエーションを描いた場面が挿入される。そして現実の世界に戻ってみると、この挿入された映画は、コミカルなドラマのなかで主人公クリフが彼の姪と映画館で観ているものであることがわかる。そのクリフは映画を観ながら、こんなことは映画のなかだけの出来事だと姪に語る。

 これまでアレンの作品において、虚構の世界は登場人物が憧れたり理想とする向こう側の世界であったが、こうした展開のなかで、虚構が現実を模倣しているのか、現実が虚構を模倣しているのか、その境界は曖昧なものになっていく。この映画の終盤には、映画に理想を求める一方、現実世界で一瞬完全犯罪が頭をよぎる監督クリフと、現実世界で完全犯罪を実際に行い、その事実を映画のためのプロットとして語る眼科医ジュダーによる皮肉な対話があり、この場面もこの曖昧な境界を物語っている。

 そしてラストでは、信仰によって揺るぎない人生を歩むユダヤ教の牧師ベンの姿に、クリフが心酔していたルイス・レヴィ教授のナレーションが重ねられる。そこには、人生は選択であり、何を選択するかがその人の人生の総決算となるという言葉がある。これは、何を選択するかがその人の現実となると言い換えてもいいだろう。

■■神の存在をめぐるユダヤ教と無神論の対比■■

 そして、アレンの作品のなかで、このように現実と虚構の境界が曖昧になるのと同時に、次第に明確なテーマとして浮かび上がってくるのが、ユダヤ教と無神論の繋がりである。『重罪と軽罪』におけるクリフとジュダーの対話は、現実と虚構をめぐる対話であると同時に、ユダヤ教と無神論をめぐる対話でもある。アレンと無神論、あるいは神の不在といったとき、本来なら彼に多大な影響を及ぼしているベルイマンが参照されることになるのだろうが、ここで筆者が引用したいのは昨年インタビューしたイギリスの女性監督サリー・ポッターの発言である。


  《データ》
1972 『ボギー!俺も男だ』
(※ハーバート・ロス監督)
1977 『アニー・ホール』
1979 『マンハッタン』
1980 『スターダスト・メモリー』
1983 『カメレオンマン』
1984 『ブロードウェイのダニー・ローズ』
1985 『カイロの紫のバラ』
1986 『ハンナとその姉妹』
1988 『私の中のもうひとりの私』
1989 『ウディ・アレンの重罪と軽罪』
1993 『マンハッタン殺人ミステリー』
1994 『ブロードウェイと銃弾』
1996 『世界中がアイ・ラヴ・ユー』
1997 『地球は女で回ってる』
(注:これは厳密なフィルモグラフィーではなく、本論で言及した作品のリストです)
 



―私の中のもうひとりの私―

 Another Woman
(1988) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本   ウディ・アレン
Woody Allen
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
Sven Nykvist
編集 スーザン・E・モース
Susan E. Morse

◆キャスト◆

マリオン.   ジーナ・ローランズ
Gena Rowlands
ホープ ミア・ファロー
Mia Farroe
ラリー ジーン・ハックマン
Gene Hackman
ケン イアン・ホルム
Ian Holm
マリオンの父 ジョン・ハウスマン
John Houseman
キャシー ベティ・バックリー
Betty Backley
リディア ブライス・ダナー
Blythe Danner

(配給:ワーナー)
 


―ウディ・アレンの重罪と軽罪―

 Crimes and Misdemeanors
(1989) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本   ウディ・アレン
Woody Allen
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
Sven Nykvist
編集 スーザン・E・モース
Susan E. Morse

◆キャスト◆

クリフ・スターン.   ウディ・アレン
Woody Allen
ジュダー・ローゼンタール マーティン・ランドー
Martin Landau
ハリー・リード ミア・ファロー
Mia Farrow
レスター アラン・アルダ
Alan Alda
バーバラ キャロライン・アーロン
Caroline Aaron
ミリアム クレア・ブルーム
Claire Bloom
ウェンディ ジョアンナ・グリーソン
Joanna Gleason
ドロレス・ペリー アンジェリカ・ヒューストン
Anjelica Huston

(配給:ワーナー)
 
 
 


 彼女は特にアレンと結びつきがあるわけではないが、昨年公開された彼女の『タンゴ・レッスン』はアレンの世界に通じるものがある。この映画には、ポッター自身が映画監督、さらにはユダヤ系の無神論者として登場し、現実と虚構が微妙に交錯する世界が構築されていく。彼女は、その現実と虚構の狭間で本来の自己とは何かを探ろうとするのだが、そうした発想の原点はユダヤ教と無神論にあると思われる。彼女はそれをこう説明する。

「キリスト教とユダヤ教の大きな違いは、キリスト教徒が神をひたすら信じるしかないのに対して、ユダヤ教の場合にはまず疑うということから始まるのです。不思議に思えるかもしれませんが、神と議論を戦わせることもできるし、神は存在するのかという疑問を投げかけることすら可能なのです。それだけに、芸術家や無神論者にとってユダヤ教はとても魅力的な宗教ともいえるのです」

 アレン作品における彼のユダヤ系作家としての特徴は、以前は、自己言及的な強烈な被害者意識、ペシミスティックでシニカルなスタンスから繰り出されるひねりのきいたユーモアにあったが、現実と虚構をめぐる世界を探求することは、同時に彼のユダヤ系としてのアイデンティティを掘り下げることにも繋がっているのではないかと思う。

 『スターダスト・メモリー』でコメディからシリアスな作家への転向を目指す主人公の監督は、虚構の世界のなかで宇宙人たちに神の存在について尋ねる。『ハンナとその姉妹』に登場するテレビの放送作家は、死の恐怖に直面してカトリックに改宗し、ひたすら神を信じようと努力するが、神を見出すことはできない。『重罪と軽罪』ではクリフとジュダーが、ユダヤ教と無神論、現実と虚構をめぐって不確かな状況に置かれ、その解釈は観客に委ねられている。

 このユダヤ教と無神論というテーマは、最新作『地球は女で回っている』にも引き継がれている。この映画には、アレン扮する無神論者の作家ハリーと結婚とともにユダヤ教に深く傾倒するようになった彼の姉の確執という展開が盛り込まれているのだ。しかし、この映画ではもはや解釈が観客に委ねられることはない。『重罪と軽罪』からこの最新作に至るまでに、アレンの映画は、現実と虚構の曖昧な境界から、さらに虚構を基盤とするような世界へと踏みだしていくからだ。

 

■■ジョルスンとユダヤ系芸人としてのアイデンティティ■■

 90年代のアレン作品のなかで、最新作を除いて筆者が最も重要だと思うのは『ブロードウェイと銃弾』である。この映画では、虚構の世界であるはずだった劇中の舞台劇が、チーチというギャングにとって現実を凌駕する世界に変貌していく過程が非常に鋭い視点で描きだされ、現実と虚構の転倒が浮き彫りにされているからだ。

 読者のなかにはこの前作の『マンハッタン殺人ミステリー』にもそれが当てはまると思われる方もいるかもしれないが、その意味は全然違う。アレンはこの前作については「たいして意味のない作品にほぼ一年を浪費してしまったような気がする」とか「現実逃避の映画だね。まあ、そういう点では成功していたけど、僕があえてやるべき作品ではない気もした」(『ウディ・オン・アレン』)と語っている。筆者も同感である。これに対して『ブロードウェイと銃弾』はアレンにしか作ることができない映画だと断言できる。

 アレンの映画のなかで現実と虚構の境界が曖昧になることと、彼がユダヤ系のアイデンティティを掘り下げようとすることの結びつきはすでに触れたが、この映画ではさらにユダヤ系の芸人としてのアイデンティティを掘り下げるところから映画が作りあげられている。この映画について語るためには、まずアル・ジョルスンの存在に言及しておく必要がある。

 ジョルスンは20〜30年代のブロードウェイで一世を風靡した芸人である。彼はロシア生まれのユダヤ人で、子供の頃に家族とともにアメリカに移民した。父親はユダヤ教会のカンター(礼拝式の独唱者)で、息子にそれを継がせるための音楽教育をしたが、ジョルスン少年は芸人の道を選ぶ。

 彼は豊かな歌唱力を備えていたが、芸人としての彼の地位を不動のものにしたのは、ミンストレル・ショーの一座に加わっていたときに彼が取り入れた伝統的な黒塗りのメイクだった。この黒塗りのメイクの効果は、彼が主演したアメリカ初のトーキー作品『ジャズ・シンガー』を見るとよくわかる。これは彼の実話がもとになっている映画だが、メイクをすると憂いのある素顔は一瞬にして生気に満ちた表情に変わり、ステージでは別人のように感情をほとばしらせるのだ。

 19世紀前半に生まれたミンストレル・ショーはアメリカ大衆芸能のルーツであり、その後のショービジネスに多大な影響を及ぼした。この黒塗りのメイクは、人種をめぐる束縛や解放を生みだすのだ。ミンストレル・ショーは、最初は白人が顔を黒塗りにして黒人の物真似をしたわけだが、奴隷制から解放されてショービジネスの世界に入ってきた黒人も、褐色の顔を黒塗りにすることでその伝統を引き継ぐことを余儀なくされた。そしてユダヤ系も、ジョルスンのようにこの伝統を受け入れるところから出発する芸人が少なくなかったが、彼らの場合にはこのメイクが、ユダヤの伝統から解放され自由なパフォーマンスを繰り広げるのに大きな役割を果たした。

 余談ながら83年の映画『カメレオンマン』でアレンは、ジョルスンが活躍したのと同じ20〜30年代を背景に、周囲の環境に順応して黒人や中国人、インディアンなどにカメレオンのごとく変身してしまう男ゼリグを創造したが、そこにはやはりユダヤ系の芸人としての発想を垣間見ることができるように思う。


―――ブロードウェイと銃弾―

 Bullets Over Broadway
(1994) on IMDb


◆スタッフ◆

監督   ウディ・アレン
Woody Allen
脚本 ウディ・アレン、ダグラス・マクグラス
Woody Allen, Douglas McGrath
撮影 カルロ・ディ・パルマ
Carlo Di Palma
編集 スーザン・E・モース
Susan E. Morse

◆キャスト◆

デイヴィッド.   ジョン・キューザック
John Cusack
ヘレン・シンクレア ダイアン・ウィースト
Dianne Wiest
オリーヴ ジェニファー・ティリー
Jennifer Tilly
チーチ チャズ・パルミンテリ
Chazz Palminteri
エレン メアリー=ルイーズ・パーカー
Mary-Louise Parker
マルクス ジャック・ウォーデン
Jack Warden
エデン トレイシー・ウルマン
Tracey Ullman
ワーナー・パーセル ジム・ブロードベント
Jim Broadbent

(配給:ヘラルド)
 


 そこで『ブロードウェイと銃弾』だが、この映画の物語はジョルスンの実話にインスパイアされている。それはジョルスンと彼の三番目の妻になる女優ルビー・キーラーのエピソードだ。彼がルビーに出会ったとき、彼女はジョニー・コステロというイタリア系のギャングの愛人になっていて、その後押しでブロードウェイで成功の階段を上ろうとしていた。しかしルビーに恋してしまったジョルスンは彼女につきまとい、プロボクサーのボディガードに睨まれたり、電話で脅迫されたりした。彼はそんなショービジネスとギャングの世界の狭間で、最終的にルビーを自分のものにするのだ。===>2ページへ続く


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