ウディ・アレンの映画では、様々なレベルで常に現実と虚構の世界がせめぎあっている。この虚構とは、登場人物が憧れていたり、あるいは自ら作りあげる映画、舞台劇、小説の世界であることもあれば、男女関係のもつれなどがきっかけとなって膨らんでいく思い込みや妄想の類であることもある。現実とこうした虚構の世界の関係は、アレンの新旧の作品では対照的といってもいいほどに大きな違いを見せつつある。
以前のアレン作品では、登場人物がどんなに虚構の世界にのめり込もうとも、その背景には揺るぎない現実という基盤があり、最終的に彼らは現実に戻ってくる。『ボギー!俺も男だ』(この作品はハーバート・ロス監督だがアレンの世界と見て差し支えないだろう)の主人公アランも『カイロの紫のバラ』の主人公セシリアも、それぞれに映画という虚構の世界にどっぷりと漬かり、そこで特別なロマンスを体験するが、しかし最後には現実の世界を受け入れなければならない。
『アニー・ホール』の主人公アルビーは、アニーとの体験をもとに台本を書くが、その虚構の世界のドラマをハッピーエンドで結び、芸術の世界だけでも理想的な結末にしたいと述懐する。『マンハッタン』の冒頭では、現実のマンハッタンの映像といままさに小説を書きだそうとしている主人公アイザックのナレーションが重ねられ、愛する街を彷徨うロマンティストは、現実を何とか彼が求める小説の世界に引き込もうと奮闘するが、最後にははたと我に返ることになる。
これに対して90年代のアレン作品では、現実と虚構の関係がほとんど転倒してしまい、極端に言えば虚構の世界が基盤になり、人間が虚構の世界を生きることの意味を追求しているように思えるのだ。とはいうものの、これは現実と虚構をめぐるアレンの世界観が、ある時期を境に突然変化したということではない。新旧の作品を対比すれば大きな違いではあるが、アレンにしてみれば、コンスタントに映画を作りつづけ、現実と虚構をめぐる実験を繰り返していくうちに、自ずと見えてきたものを受け入れてきた結果にすぎないということだ。
■■現実が虚構を模倣するのか、虚構が現実を模倣するのか■■
そんなアレンの変化の兆しは、86年の『ハンナとその姉妹』、88年の『私の中のもうひとりの私』、89年の『重罪と軽罪』あたりの作品に見ることができる。
たとえば『私の中のもうひとりの私』には、現実と虚構をめぐるささやかではあるが印象的な転倒がある。ヒロインはこれまで充実した人生を送ってきたと信じていたが、隣室の精神分析医のクリニックからもれてくる患者と医師の会話を耳にしたことがきっかけとなって、過去の自分を見つめなおす奇妙な旅を始める。
そんな旅を経て現在の自分に立ち返ったとき、これまで自分を支えてきた現実はほとんど崩壊している。そこで彼女は、昔彼女に想いを寄せていた友人が書いた小説のことを思いだし、彼女をモデルにしたという人物が登場する部分を読みふけり、フラッシュバックによって過去が生き生きとよみがえってくる。
もちろんこの作品でも結局ヒロインは現実を生きていかなければならないわけだが、自分を立て直すために彼女が過去や現在から選びとる現実は、これまでとは違う現実であるに違いない。ということは、現実はもはや揺るぎないひとつのものではなくなり、人間の選択によって変化する不確かなものへと移行することにもなる。
『重罪と軽罪』では、現実と虚構の境界がさらに曖昧なものになっていく。この作品では、シリアスなドラマとコミカルなドラマが平行して綴られるが、その狭間に挿入される映画の使い方が印象に残る。まずシリアスなドラマの展開があり、続いて『スミス夫妻』や『拳銃貸します』などの映画から、同じようなシチュエーションを描いた場面が挿入される。そして現実の世界に戻ってみると、この挿入された映画は、コミカルなドラマのなかで主人公クリフが彼の姪と映画館で観ているものであることがわかる。そのクリフは映画を観ながら、こんなことは映画のなかだけの出来事だと姪に語る。
これまでアレンの作品において、虚構の世界は登場人物が憧れたり理想とする向こう側の世界であったが、こうした展開のなかで、虚構が現実を模倣しているのか、現実が虚構を模倣しているのか、その境界は曖昧なものになっていく。この映画の終盤には、映画に理想を求める一方、現実世界で一瞬完全犯罪が頭をよぎる監督クリフと、現実世界で完全犯罪を実際に行い、その事実を映画のためのプロットとして語る眼科医ジュダーによる皮肉な対話があり、この場面もこの曖昧な境界を物語っている。
そしてラストでは、信仰によって揺るぎない人生を歩むユダヤ教の牧師ベンの姿に、クリフが心酔していたルイス・レヴィ教授のナレーションが重ねられる。そこには、人生は選択であり、何を選択するかがその人の人生の総決算となるという言葉がある。これは、何を選択するかがその人の現実となると言い換えてもいいだろう。
■■神の存在をめぐるユダヤ教と無神論の対比■■
そして、アレンの作品のなかで、このように現実と虚構の境界が曖昧になるのと同時に、次第に明確なテーマとして浮かび上がってくるのが、ユダヤ教と無神論の繋がりである。『重罪と軽罪』におけるクリフとジュダーの対話は、現実と虚構をめぐる対話であると同時に、ユダヤ教と無神論をめぐる対話でもある。アレンと無神論、あるいは神の不在といったとき、本来なら彼に多大な影響を及ぼしているベルイマンが参照されることになるのだろうが、ここで筆者が引用したいのは昨年インタビューしたイギリスの女性監督サリー・ポッターの発言である。 |