ウディ・アレンの『ブロードウェイと銃弾』では、野心もコネもある劇作家が成功を前にして足踏みしているうちに、野心のかけらもないギャングが劇作家としての驚くべき才能を発揮してしまう。『セレブリティ』では、有名になることしか頭にない記者の努力が空回りするうちに、有名人を軽蔑していた彼の先妻が有名人の仲間入りをしている。『おいしい生活』の前半部分にもそんな展開がある。
泥棒である主人公レイは、銀行に隣接する店舗の地下からトンネルを掘り、彼の妻がカムフラージュのためにクッキー屋を開く。泥棒は自信満々だが、結果的にはドジの連続。ところが、妻のクッキー屋が大繁盛してしまい、富豪となった夫婦は上流社会に乗り込んでいく。しかしこの話はその前半部分でほとんど終わってしまっている。ここにはアレンが突き詰めてきた現実と虚構のせめぎあいは見当たらない。
この映画は、アレンの原点回帰とかコメディの王道のようにいわれる。もしアレンが本当にそういうことを考えてこの映画を作ったのであるならば、別に何も言うことはない。しかしアレンがこの物語を作るにあたって、昨今のニューヨークを念頭に置いていることは容易に察せられる。
この物語には、ジェントリフィケーションが進み、貧富の差が拡大してしまったニューヨークが意識されている。にもかかわらず、この映画の後半からは、階級意識をめぐる平凡な教訓しか残らない。そこが問題なのだ。 |