ニューヨークの表層化と再生の息吹
――80年代から現代に至る小説の流れを追う


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(初出:「Paperback」Spring 2001 Vol.1)

 

 

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 この街の住人すべてを覆う、言いようのない熱気につかまった自分をラッセルは感じた。金だけがすべての、すさまじいエネルギーが社会全体に放電され、その電気的な壁に押しこめられたような気分だった。(「空から光が降りてくる」ジェイ・マキナニー)

 カナダ出身の作家ダグラス・クーパーにとって2作目の長編となる『Delirium』(98)は、都市と建築、そして物語の結びつきがとても印象に残る作品だ。この小説に登場する著名な建築家プライスは、かつてトロントに彼のキャリアの集大成となる巨大な塔を作り上げ、引退して今はパリに暮らしている。 独創的な建造物を作る野心を抱いていた彼は、カナダが理想的な場所だと考えていた。パリやニューヨークといった大都市では、すでに多くの物語が生みだされ、都市自体が意識を持っていたが、カナダの都市はまだ歴史が浅く、物語すらなかったからだ。彼が作った塔は、都市を支配し、人間性を否定し、標本であるかのように人々を封じ込めてしまう。

 都市と物語ということでいえば、確かにニューヨークでは多くの物語が生み出され、文学的な土壌が形成されてきた。その土壌が豊かであれば、多様な価値観が都市という全体を構成し、単一の価値観で支配することは難しくなる。しかし、80年代のニューヨークには、目に見えない巨大な塔が出現し、人々を封じ込めてしまったと見ることもできる。 その塔の基盤を成すのは、金持ちを優遇し弱者を切り捨てるレーガン政権の政策であり、そこから不動産や投資のブーム、ジェントリフィケーション、ヤッピーやホームレスなどが生み出された。この急激な変化は、都市の土壌を揺さぶり、人と社会、あるいは人と人の関係に多大な影響を及ぼしている。

■■80年代という時代の影響■■

 80年代のニューヨークを描いた小説からは、都市に出現したこの巨大な塔が様々なかたちで浮かび上がってくる。

 トム・ウルフの「虚栄の篝火」(87)の主人公は、 ”宇宙の支配者” を自認する超エリートのトレーダーだ。彼は巨大な塔の頂上から世界を見下ろしているつもりでいる。そんな彼は、都市の最下層に位置する人間と、思いもよらないかたちで遭遇するはめになる。愛人を乗せた車でサウス・ブロンクスに迷い込み、黒人の少年をはね、そのまま逃走するのだ。 事件は次第に表面化し、主人公は、金や女をめぐる個人の欲望、人種間の対立や社会運動、マスコミなどのせめぎあいのなかで、スキャンダラスな生贄に仕立て上げられていく。

 ウルフは綿密な取材と緻密な構成によって、80年代のニューヨークを ”全体” としてとらえようとする。しかしこの緻密な構成は、逆に考えれば、どこでパズルが欠けても、事件がさして注目されずに終わる可能性を示唆している。小説が都市を全体としてとらえようとしても、社会の急激な変化のなかで都市に生きる人々は、 すでに全体という認識を喪失してしまっている。全体とは他者や隣人に対する認識から成り立っているが、その認識のもとになる距離感が失われ、都市は細分化、断片化されてしまっているのだ。

 ブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」(91)は、過剰なスタイルを通してそんな現実を浮き彫りにする。この小説は、「虚栄の篝火」のアプローチに対するエリスの返答といえる。主人公ベイトマンは、「虚栄の篝火」の主人公と同じく、ウォール街のピアース&ピアース社に籍を置くエリートのトレーダーだが、都市は主人公の存在を通して極限まで細分化、断片化されていく。

 この小説で不気味な印象を与えるのは、決して暴力描写ではない。本当に異様なのは、主人公があらゆるものをまったく等価に消費することだ。彼は、「スポーツ・イラストレイテッド」や「エスクァイア」とかなりエグいポルノ雑誌を、何ら違いがないものとして購入する。彼の友人やファッショナルブルなクラブで出会う女たちは、ほとんど身に付けているブランドだけで識別される。彼にとっては、日常生活も殺人もまったく同じ消費行為に過ぎない。 そこには、細分化、断片化された消費行為があるだけで、人間としての他者を認識することはできないし、彼自身の内面も空白であり、突き詰めれば同じ環境にある別の人間と交換可能な存在になっている。そして消費する者とされる者の存在だけで、都市が表現されてしまう。

 ジェイ・マキナニーの「空から光が降りてくる」(92)もまた、「虚栄の篝火」の世界に異なる光をあてる作品だ。レーガン政権が誕生してから6年、それと同じ時間を老舗の出版社で過ごしてきた主人公ラッセルは、何かをしなければ自分がこのまま終わってしまうという危機感を持ち、出版社を買収しようとする。そして冒頭に引用したように、金がすべての世界に囚われ、物語を送りだす場所である出版社は金融界に飲み込まれていく。



《データ》
Delirium ●
by Douglas Cooper(Hyperion) 1998
The Bonfire of the Vanities●
by Tom Wolfe 1987
American Psycho ●
by Bret Easton Ellis 1991
Brightness Falls ●
by Jay McInerney 1992
City of Glass ●
by Paul Auster 1985
No Lease on Life ●
by Lynne Tillman (A Harvest Book) 1998
Leaps of Faith ●
by Rachel Kranz (Farrar, Straus and Giroux) 2000
The Fuck-up ●
by Arthur Nersesian (MTV Books/Pocket Books) 1997,1999
Manhattan Loverboy ●
by Arthur Nersesian (Akashic Books) 2000
Dogrun ●
by Arthur Nersesian (MTV Books/Pocket Books) 2000
「虚栄の篝火」トム・ウルフ ●
中野圭二訳/文藝春秋/1991年
「アメリカン・サイコ」ブレット・イーストン・エリス ●
小川高義訳/角川書店/1993年
「空から光が降りてくる」ジェイ・マキナニー ●
駒沢敏器訳/講談社/1997年
「シティ・オヴ・グラス」ポール・オースター ●
山本楡美子・郷原宏訳/角川書店/1989年
 
 
 
 


 この小説では、クライマックスに歴史的な事実が盛り込まれていることが印象に残る。それは87年の株式市場の大暴落であり、そして、トンプキンズ・スクエア公園を占拠したホームレスやサポーターたちを力で強制的に排除した事件だ。このふたつの事件によって、ラッセルと彼の妻コリーンの野望や希望は打ち砕かれる。そこから、どのような道を歩みだすのかは、決して彼らだけが背負う課題ではなく、この街とそこに暮らす人々すべての課題でもある。 小説の最後で、コリーンが路上で震える少年に歩み寄ろうとするとき、少年は激しく怯える。それは他者との距離感が消失し、他者=脅威であることを示唆している。

 これまで取り上げた3冊の小説の主人公たちは、いずれも物語のなかで落ちていく。「アメリカン・サイコ」はいささか異質かもしれないが、ベイトマンもまた消費の塔を上り詰めて落ちていくと見ることができるだろう。そして、こうしたヴィジョンは、ポール・オースターが「シティ・オヴ・グラス」(85)を書いた時点で、すでに明確に予見されていたともいえる。

 探偵小説の形式を取り込んだこの小説で、主人公クィンは、スティルマンという男の尾行を始める。スティルマンが歩いた軌跡からは、 ”バベルの塔” の文字が浮かび上がる。それはクィンが持っている赤いノートだけに存在する、目に見えない塔である。そのスティルマンの足跡が途絶えた後、彼はノートに事件とは関係のないことを書き始める。確かな事実を記録しておきたいという思いに駆られた彼が目撃するのは、何もすることがなく、どこへも行くところがない人々で埋め尽くされた地獄の光景なのだ。

 やがてクィンは、自分もそのホームレスのひとりとなり、 ”転落” しつつあることに気づく。スティルマンはブルックリン橋から飛び降りて死亡し、クィンも姿を消すことになる。この目には見えないバベルの塔の出現、転落する感覚、そして他者との距離感の消失は、実に象徴的である。

 この符合からは、80年代という時代がニューヨークに及ぼした影響の大きさを感じとることができる。そして、現代のニューヨークを描くということは、こうした崩壊と喪失を潜り抜け、その向こうに見えてくるものを描くことを意味する。これは必ずしも容易なことではない。都市はひとつの全体ではなく、細分化、断片化され、他者や隣人に対する認識が失われてしまっているからだ。

■■小さな断片からの再発見■■

 リン・ティルマンの4作目の長編となる『No Lease on Life』(98)には、そうした現実を踏まえた上での、ひとつの方向性というものが見える。この小説の冒頭には、物騒な空気が漂っている。住人たちが眠りにつく時間に、外の通りでいかれた若者たちが、ゴミバケツを引っくり返したり、車に投げつけたりして、大騒ぎを繰り広げている。眠りを妨げられた主人公エリザベスは、窓から外の様子を窺いながら、その連中を殺したいと思う。彼女は、ボウガンを使って男の頭に矢を撃ちこむ様子を思い描き、妄想はさらに広がっていく。そこには、まさに他者=敵の図式が見える。しかし物語が進むに従って、この小説からは別の世界が広がっていく。

 この小説は<夜と昼>と<昼と夜>の二部からなり、一部では実質的な舞台は主人公の部屋と窓の外の通りだけで、二部でも彼女は近所に買物に出る程度で、行動範囲は限られている。物語はきわめてミニマルで、断片的な設定で語られる。主人公のエリザベスは特別な人間ではない。金持ちでも貧乏でもなく、特に孤独というわけでもない。大卒で、校正の仕事があり、イースト・ヴィレッジのアパートに彼氏と一緒に暮らしている。但し問題がないわけではない。夜中に外で大騒ぎする連中には怒りを覚えるし、ヘドやゴミで汚れたアパートの入り口や非常階段を掃除しない管理人にも苛立っている。

 彼女がそこにとどまる理由は物語から察せられる。彼女は郊外で育ったため、生活環境が清潔であることにはこだわりを持っているが、スモールタウンでの生活は嫌っている。住人たちが自分たちを世界と繋ぐために、巨大なアンテナを芝生に立てながら、世界に何も求めていない。自然のなかに暮らして、世界のことなど気にもとめないのに、お互いのことだけは何でも知っている。彼女にはそんな牢獄の生活は耐えられないのだ。

 彼女は仕事と貧困について、こんなことを考える。それなりにお金があり、恵まれている人間は、ノイローゼは贅沢だと思っている。それは貧しくない人間が偏狭なだけで、もし彼らが失業してどん底に落ちれば、貧乏人はいかなるときでもノイローゼになる。金持ちも貧乏人もそれぞれに閉ざされ、誰もが他者を拒んでいる。

 この小説で、そんな他者との関係をめぐって興味深いのが、だいたい2、3ページごとに物語の流れとは無関係に、短いジョークが挿入されていることだ。それは、白人、黒人、ユダヤ人などの人種やジェンダーをめぐる様々なジョークである。ティルマンはあるインタビューでそれを、都市の構成要素と語っていたが、その意図はよくわかる気がする。こうしたジョークは、他者との違いを認識したうえで、はじめてユーモアとなる。

 エリザベスは日常のなかで、この都市の構成要素を無意識のうちに受け入れている。彼女は、近所の偏屈な老婆やヤク中の娼婦と親しく接し、管理人にただで利用されてしまう知的障害を抱えた黒人の大男に交通費を渡したり、顔見知りの浮浪者とビールを飲んだりもする。それは「空から光が降りてくる」のコリーンのように、慈善的な感情や罪悪感が背景にあるのではなく、自然な行為なのだ。そして、翌日の晩、同じ連中が外で騒ぎだしたとき、彼女は冒頭の物騒な妄想とはまったく違う方法で、彼らに仕返しをする。この小説は小さな窓の世界から始まり、たかだか24時間の物語でありながら、決して断片ではない都市を感じる物語になっている。

 ちなみにこの物語は、舞台がイースト・ヴィレッジということもあり、トンプキンズ・スクエア公園の事件もわずかながら盛り込まれている。彼女は、緑に囲まれ、家族の憩いの場となっている公園を見ながら、ある夏の夜に起こった出来事を回想する。警官隊が公園の不法占拠者たちに襲いかかり、その夜はエルサルバドルに住んでいるようだった。頭上を旋回するヘリコプターに催涙ガス、逃げ惑うたくさんの人々と彼らを追うたくさんの警官隊。すべてが片付けら、1年間閉鎖された後で、公園の入り口は検問所に変貌した。

 そんな回想には、80年代以後に対する意識が反映されているように思う。小さな断片から他者や隣人を再発見し、認識することで、コミュニティが見え、そして都市が見えてくるのだ。

 レイチェル・クランツの実に長大な処女作『Leaps of Faith』(00)にも、それに通じる視点がある。著者のクランツは、マンハッタンに暮らし、組合のオルグや臨時の秘書として働き、劇団を主宰し、ラジオのリポートやヴィデオによるドキュメンタリーで賞を受賞するなど多彩な活動をしてきた。そんな彼女のキャリアは、この小説にも反映されている。

 物語は3人の人物を軸に展開する。まずバイク便の仕事をしながら、俳優を志すフリップと人の未来を見ることができる霊能者のウォーレン。彼らはゲイで、恋人同士だったが、保守的なウォーレンには、惨めな思いをしてまで俳優を志すフリップの気持ちが理解しかね、ふたりは別れてしまう。ところが、これまでその存在すらまったく知らなかった8歳の姪が、ウォーレンのところに転がり込んできたのをきっかけに、関係が復活し、彼らは結婚の可能性を模索していく。もうひとりは、フリップの妹ロージーで、彼女は組合のオルグとして、オリンピアという架空の大学で職員たちのストライキを成功させるために奔走している。

 フリップは黒人やヒスパニックの団員が中心になっているダウンタウンの劇団に参加し、ウォーレンは黒人との混血の姪の世話を始め、ロージーは黒人の恋人と付き合っている。そんな人種やジェンダーが交錯する物語を通して、クランツは、家族やコミュニティの意味を再検証していく。彼女が紡ぎだす登場人物たちの会話には、ティルマンの小説に挿入されたジョークに通じるユーモアがふんだんに盛り込まれ、この小説でも他者の認識を通して、都市が見えてくるのだ。 ===>2ページへ続く

 
 
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