この小説では、クライマックスに歴史的な事実が盛り込まれていることが印象に残る。それは87年の株式市場の大暴落であり、そして、トンプキンズ・スクエア公園を占拠したホームレスやサポーターたちを力で強制的に排除した事件だ。このふたつの事件によって、ラッセルと彼の妻コリーンの野望や希望は打ち砕かれる。そこから、どのような道を歩みだすのかは、決して彼らだけが背負う課題ではなく、この街とそこに暮らす人々すべての課題でもある。
小説の最後で、コリーンが路上で震える少年に歩み寄ろうとするとき、少年は激しく怯える。それは他者との距離感が消失し、他者=脅威であることを示唆している。
これまで取り上げた3冊の小説の主人公たちは、いずれも物語のなかで落ちていく。「アメリカン・サイコ」はいささか異質かもしれないが、ベイトマンもまた消費の塔を上り詰めて落ちていくと見ることができるだろう。そして、こうしたヴィジョンは、ポール・オースターが「シティ・オヴ・グラス」(85)を書いた時点で、すでに明確に予見されていたともいえる。
探偵小説の形式を取り込んだこの小説で、主人公クィンは、スティルマンという男の尾行を始める。スティルマンが歩いた軌跡からは、 ”バベルの塔” の文字が浮かび上がる。それはクィンが持っている赤いノートだけに存在する、目に見えない塔である。そのスティルマンの足跡が途絶えた後、彼はノートに事件とは関係のないことを書き始める。確かな事実を記録しておきたいという思いに駆られた彼が目撃するのは、何もすることがなく、どこへも行くところがない人々で埋め尽くされた地獄の光景なのだ。
やがてクィンは、自分もそのホームレスのひとりとなり、 ”転落” しつつあることに気づく。スティルマンはブルックリン橋から飛び降りて死亡し、クィンも姿を消すことになる。この目には見えないバベルの塔の出現、転落する感覚、そして他者との距離感の消失は、実に象徴的である。
この符合からは、80年代という時代がニューヨークに及ぼした影響の大きさを感じとることができる。そして、現代のニューヨークを描くということは、こうした崩壊と喪失を潜り抜け、その向こうに見えてくるものを描くことを意味する。これは必ずしも容易なことではない。都市はひとつの全体ではなく、細分化、断片化され、他者や隣人に対する認識が失われてしまっているからだ。
■■小さな断片からの再発見■■
リン・ティルマンの4作目の長編となる『No Lease on Life』(98)には、そうした現実を踏まえた上での、ひとつの方向性というものが見える。この小説の冒頭には、物騒な空気が漂っている。住人たちが眠りにつく時間に、外の通りでいかれた若者たちが、ゴミバケツを引っくり返したり、車に投げつけたりして、大騒ぎを繰り広げている。眠りを妨げられた主人公エリザベスは、窓から外の様子を窺いながら、その連中を殺したいと思う。彼女は、ボウガンを使って男の頭に矢を撃ちこむ様子を思い描き、妄想はさらに広がっていく。そこには、まさに他者=敵の図式が見える。しかし物語が進むに従って、この小説からは別の世界が広がっていく。
この小説は<夜と昼>と<昼と夜>の二部からなり、一部では実質的な舞台は主人公の部屋と窓の外の通りだけで、二部でも彼女は近所に買物に出る程度で、行動範囲は限られている。物語はきわめてミニマルで、断片的な設定で語られる。主人公のエリザベスは特別な人間ではない。金持ちでも貧乏でもなく、特に孤独というわけでもない。大卒で、校正の仕事があり、イースト・ヴィレッジのアパートに彼氏と一緒に暮らしている。但し問題がないわけではない。夜中に外で大騒ぎする連中には怒りを覚えるし、ヘドやゴミで汚れたアパートの入り口や非常階段を掃除しない管理人にも苛立っている。
彼女がそこにとどまる理由は物語から察せられる。彼女は郊外で育ったため、生活環境が清潔であることにはこだわりを持っているが、スモールタウンでの生活は嫌っている。住人たちが自分たちを世界と繋ぐために、巨大なアンテナを芝生に立てながら、世界に何も求めていない。自然のなかに暮らして、世界のことなど気にもとめないのに、お互いのことだけは何でも知っている。彼女にはそんな牢獄の生活は耐えられないのだ。
彼女は仕事と貧困について、こんなことを考える。それなりにお金があり、恵まれている人間は、ノイローゼは贅沢だと思っている。それは貧しくない人間が偏狭なだけで、もし彼らが失業してどん底に落ちれば、貧乏人はいかなるときでもノイローゼになる。金持ちも貧乏人もそれぞれに閉ざされ、誰もが他者を拒んでいる。
この小説で、そんな他者との関係をめぐって興味深いのが、だいたい2、3ページごとに物語の流れとは無関係に、短いジョークが挿入されていることだ。それは、白人、黒人、ユダヤ人などの人種やジェンダーをめぐる様々なジョークである。ティルマンはあるインタビューでそれを、都市の構成要素と語っていたが、その意図はよくわかる気がする。こうしたジョークは、他者との違いを認識したうえで、はじめてユーモアとなる。
エリザベスは日常のなかで、この都市の構成要素を無意識のうちに受け入れている。彼女は、近所の偏屈な老婆やヤク中の娼婦と親しく接し、管理人にただで利用されてしまう知的障害を抱えた黒人の大男に交通費を渡したり、顔見知りの浮浪者とビールを飲んだりもする。それは「空から光が降りてくる」のコリーンのように、慈善的な感情や罪悪感が背景にあるのではなく、自然な行為なのだ。そして、翌日の晩、同じ連中が外で騒ぎだしたとき、彼女は冒頭の物騒な妄想とはまったく違う方法で、彼らに仕返しをする。この小説は小さな窓の世界から始まり、たかだか24時間の物語でありながら、決して断片ではない都市を感じる物語になっている。
ちなみにこの物語は、舞台がイースト・ヴィレッジということもあり、トンプキンズ・スクエア公園の事件もわずかながら盛り込まれている。彼女は、緑に囲まれ、家族の憩いの場となっている公園を見ながら、ある夏の夜に起こった出来事を回想する。警官隊が公園の不法占拠者たちに襲いかかり、その夜はエルサルバドルに住んでいるようだった。頭上を旋回するヘリコプターに催涙ガス、逃げ惑うたくさんの人々と彼らを追うたくさんの警官隊。すべてが片付けら、1年間閉鎖された後で、公園の入り口は検問所に変貌した。
そんな回想には、80年代以後に対する意識が反映されているように思う。小さな断片から他者や隣人を再発見し、認識することで、コミュニティが見え、そして都市が見えてくるのだ。
レイチェル・クランツの実に長大な処女作『Leaps of Faith』(00)にも、それに通じる視点がある。著者のクランツは、マンハッタンに暮らし、組合のオルグや臨時の秘書として働き、劇団を主宰し、ラジオのリポートやヴィデオによるドキュメンタリーで賞を受賞するなど多彩な活動をしてきた。そんな彼女のキャリアは、この小説にも反映されている。
物語は3人の人物を軸に展開する。まずバイク便の仕事をしながら、俳優を志すフリップと人の未来を見ることができる霊能者のウォーレン。彼らはゲイで、恋人同士だったが、保守的なウォーレンには、惨めな思いをしてまで俳優を志すフリップの気持ちが理解しかね、ふたりは別れてしまう。ところが、これまでその存在すらまったく知らなかった8歳の姪が、ウォーレンのところに転がり込んできたのをきっかけに、関係が復活し、彼らは結婚の可能性を模索していく。もうひとりは、フリップの妹ロージーで、彼女は組合のオルグとして、オリンピアという架空の大学で職員たちのストライキを成功させるために奔走している。
フリップは黒人やヒスパニックの団員が中心になっているダウンタウンの劇団に参加し、ウォーレンは黒人との混血の姪の世話を始め、ロージーは黒人の恋人と付き合っている。そんな人種やジェンダーが交錯する物語を通して、クランツは、家族やコミュニティの意味を再検証していく。彼女が紡ぎだす登場人物たちの会話には、ティルマンの小説に挿入されたジョークに通じるユーモアがふんだんに盛り込まれ、この小説でも他者の認識を通して、都市が見えてくるのだ。 ===>2ページへ続く |