しかし、友人のヘルムスリーがブルックリン橋から投身自殺したことがわかり、そのことを悲しむ間もなく、主人公も窮地に立たされる。彼が次々に出会った他者が、彼にとって脅威となるのだ。彼はロフトで愛人と寝込んでいるところをセルゲイに押さえられ、愛人にも裏切られ、レイプ犯として追われる。グレンに助けを求めると、彼女の息子とその仲間たちに袋叩きにされ、気づいてみれば、帰るところがどこにもないホームレスとなっているのである。
彼をホームレスにするのは、繋がりもなく断片化された80年代のニューヨークだ。この小説には、急激な変貌を遂げる都市が細かく描きこまれている。主人公が最初に働いていた映画館は、イースト・ヴィレッジのジェントリフィケーションにともない、バイトがプエルトリコ人からニューヨーク大学の学生に変わる。その映画館は小説の最後で、取り壊されてヤッピー向けのモールに生まれ変わることになる。ポルノ映画館のオーナーは、ニュージャージー州ホボーケンで、
労働者のコミュニティが崩壊し、ヤッピーのコミュニティに変わりつつあるのに目をつけ、そこに映画館を作ろうと計画する。ブロードウェイの東側の通りを歩けば、そこは若者向けの騒々しい店で埋め尽くされている
そして、このジェントリフィケーションと関連して印象的なのが歴史だ。ヘルムスリーは、次第に文学よりも歴史に強い関心を持つようになっていた。その理由は、年をとってボケだしたとき、自分の記憶と巨大な歴史の情報が融合し、世界の歴史が個人的な過去のように思えるかもしれない、ということだった。そんな友人が自殺したとき、主人公は彼のアパートに駆けつけ、歴史的に貴重な本のコレクションを運びだし、ベンツに積み込む。しかし、彼がホームレスになったとき、
そのベンツはどこかに消失している。ヘルムスリーのこの歴史に対する関心とジェントリフィケーションによって消失する歴史は、80年代のニューヨークを象徴しているといえる。
■■紡ぎだされる90年代の都市像■■
ナーシージャンが昨年発表した2冊の新作は、スタイルはまったく違うが、内容はコインの裏表のような関係にある。2冊は、90年代のニューヨークを、対極の視点から描いているのだ。
2作目の『Manhattan Loverboy』は、ポストモダン的なスタイルを取り込んだ風刺小説になっている。主人公である孤児のジョーイは、『The Fuck-up』の主人公とは異質な、パラノイア的な悪夢に引き込まれていく。彼は、自分のルーツを確認したいという願望から、大学院で歴史を学んでいる。しかもただ学ぶばかりではなく、自分をユダヤ人と考え、イスラエルに行ってキブツで生活してみるが、アイデンティティはまったく見えてこない。行き場を失った彼は、養父の兄弟が亡くなったことから、見ず知らずの叔父が所有していたアッパー・イースト・サイドの広いアパートに住めることになる。
ところが、彼が大学院で勉強するためのホイットロック奨学金が突然、打ち切られる。そこで彼が直接、ホイットロックに掛け合うと、校正の仕事を強引に押し付けられる。ジョーイはわけがわからないまま、法律関係の文書を校正する仕事につき、法律事務所で働くキャリア・ウーマン、エイミーに恋をしてしまう。そして彼女に話しかけてみると、驚くことに彼女はジョーイのアパートに同居すると言いだす。しかしただ住むのではない。彼女は彼を悪夢に引き込むのだ。
彼のアパートに現れた大工は、部屋のなかに壁を作り、彼は部屋の奥まった空間に押し込まれる。水道の本管も電気の幹線も彼女に奪われたばかりか、壁が動き、せり出してくる。さらに彼女の差し金で、校正の仕事も首になってしまう。たまりかねた彼は、裁判所に訴えるが、誰も彼の言葉を信じようとはしない。しかし悪夢はそれだけでは終わらない。彼女は今度は、本当にジョーイの恋人になると約束し、そのかわりに手術を受けるという条件を出す。その手術によって、チビで冴えない男だった彼は、背が高く、スマートでハンサムな男に変身する。そして、新しい自分との生活に喜びを見出すようになる。
これはまさにパラノイア的でダークなファンタジーだが、ただ奇想天外なだけではなく、物語からは80年代を引きずる90年代のニューヨークが見えてくる。大学院の教授がジョーイに、奨学金が打ち切りになったことを伝えるとき、彼はレーガノミックスがいまだにつづいていると付けたす。エイミーがヤッピーを連れて初めてジョーイのアパートに現れたときのことを、彼はこんなふうに表現する。「目を覚ますと、部屋はヤッピーでいっぱいになっていた。僕は連中が80年代初頭の昔のヤッピーではないことがわかった。奴らは一時的なブームから生まれ、80年代後半の市場反落で死に絶えた。
こいつらは、クリントン時代のニュー・デモクラッツで息を吹き返した生き残りヤッピーの群れだった」
さらに裁判所でジョーイは、判事に向かって、映画「ボディ・スナッチャー」のようにヤッピーが自分を奪おうとしていると訴える。しかし、手術によって自分がハンサムに変身すると、「フォーブス」や「GQ」といった雑誌を読みだし、頭のなかはベンチャー・キャピタリズムでいっぱいになるのだ。
ジョーイを襲うこの悪夢の真相もまた、そうした世相と深く結びついている。すべては金をめぐって、彼を試すために仕組まれたテストなのだ。その真相はあえて詳しくは語らないが、ジョーイは、ウィットロックがかつて投資した資本を回収するための、ある種の契約書としてこの世に生まれた。彼の存在そのものが、本人が知らないところで、あらかじめ金によって作られていたのだ。「空から光が降りてくる」で描かれたように、87年の暴落でひとつの時代が終わったかに見えるが、その影響は90年代の曖昧な中道路線に現れている。この小説は、パラノイア的な悪夢を通して、そんな現実を痛烈に風刺するのだ。
一方、3作目の『dogrun』は、2作目とは対照的にストレートなスタイルの作品になっている。物語は、ヒロインのメアリが、退屈なコピーの仕事を追えて、イースト・ヴィレッジのアパートに帰ってくるところから始まる。彼女はこの半年間、プリモという彼氏と一緒に暮らしている。そのプリモは、彼女が戻ってきても無視してテレビを見ている。彼女が食事の準備をしても、口をつけようともしない。やがて彼女は、プリモが死んでいることに気づく。検死の結果、何らかの事情で心臓麻痺を起こしたらしい。そこで、ブルックリンに住んでいる彼の母親に連絡し、彼との関係は終わったかに見える。
ところが、ある店で友人とプリモのことを話しているときに、メアリは彼の大昔の恋人に偶然出会う。彼女はプリモの大学の同級生で、彼女の口からは意外な事実が次から次に出てくる。35だと思っていた彼の年齢は実は40代半ばだった。そして彼が、80年代初頭のアート・ブームのときに、脚光を浴びたことがあるのも、スーというカンボジア系の女性と結婚していたことも知らなかった。メアリは、そのスーにプリモが死んだことを伝えたいという気持ちもあり、プリモの過去を旅しはじめる。
彼女はその旅のなかで、様々な男女に出会い、彼らと親しくなっていくうちに、どの人物も彼女が思っていたのとは違う人間であることを発見する。と同時に、彼女自身も違う自分を発見する。彼女はスーと直接話をするために、スーがやっているバンドのオーディションに顔を出すが、スーは話も聞かずに彼女にベースを渡す。大学時代にバンドをやっていたメアリは、そのオーディションに通り、何も話さないままバンドのメンバーになってしまう。彼女はバンドをやってみることに、希望のようなものを感じるのだ。そして、他者を発見する旅のなかで、自分に対してある確信を覚えるようになる。
メアリは、モールで働いていた頃に、同じ場所で働く人々の姿が印象に残り、「仕事の本」という小説を少しずつ書きためていた。そんな彼女は、これまでの日常生活のなかで、見かけていた移民の女性たち、ウェイトレスやレジ係、介護士などのささやかで、報われることのない仕事をする人々が、この街をひとつに結びつけているのだとあらためて痛感する。そして、偉大なプロレタリア小説を書きだす決心を固めるのだ。またメアリは、プリモの遺灰をトンプキンズ・スクエア公園に撒く。それは彼がこの公園でいつも犬を散歩させていたからだが、おそらくそこにはもっと深い意味が込められているのだろう。
90年代のニューヨークは、いまだ80年代の影を色濃く引きずっている。しかし、都市の断片を底辺から見直し、歴史を呼び覚まし、他者や隣人を再発見することによって、新たな都市の物語が確実に紡ぎだされようとしているのだ。 |