ニューヨークの奴隷たち / タマ・ジャノウィッツ
Slaves of New York / Tama Janowitz (1986)


1988年/松岡和子訳/河出書房新社
line
(初出:「SFアドベンチャー」1988年、若干の加筆)

自立もできず、旧来の価値観に回帰もできない
宙ぶらりんの“奴隷ライフ”を笑う

 タマ・ジャノウィッツの『ニューヨークの奴隷たち』がやっと翻訳で登場した。SFばかり読んでいる人にはあまり縁のない名前かもしれないが、海の向こうのニューヨークでは女性版ジェイ・マキナニーとかトルーマン・カポーティの再来などといわれ、マスコミの寵児となっている話題の女性作家だ。

 とはいっても、筆者はそうした評判を真に受けて本書の登場を喜んでいるわけではない。彼女に対する筆者の関心は別のところにある。筆者が最初に彼女のことを面白いと思ったのは、(残念ながら最近廃刊になってしまった)「SPIN」というアメリカの音楽誌を読んでいたときのことだ。

 それはブルース・スプリングスティーンの特集記事で、7人の作家や批評家がそれぞれに彼について書くという内容だった。そのなかで、切り口がユニークで、異彩を放っていたのがタマの文章だった。

 その書き出しは、「まず、彼のワイフを始末することだ」という一文から始まる。この文章は、不特定多数の女性に向けて、二人称で書かれている。聡明なアナタは、スプリングスティーンのワイフにロボトミーを施し、ハリウッドに送ってしまい、彼女に代わってワイフになりすます。そこから、スプリングスティーンとアナタのプライベート・ライフが、軽妙にして深刻な会話やボディガードをムスタングの外に待たせてのカーセックスなどを交えて、独特のリズムで綴られていく。

 後半でアナタは、スプリングスティーンが愛しているのが音楽だけであることを痛感する。そして懐妊はしたものの、男だろうが女だろうが名前は“エルヴィス”だという夫に閉口し、ハリウッドに飛ぶ。彼女は、蝋人形館でガイドをしていた本物のワイフを探し出し、彼のもとへ送り返す。そして、蝋人形の有名人たちに見入っていると、なにかが彼女のおなかを蹴とばすというのがオチになっていた。

 それから今度は「Interview」誌に載った彼女の短編に出会った。ヒロインは、憧れのニューヨークに来て専門学校に通うフロリダ娘だ。お金に余裕のない彼女は、ニューヨークずれした3人のルームメイトと同居するのだが、田舎者はなかなか相手にしてもらえない。

 あるときナイトクラブで彼女は3人とはぐれ、不案内な世界のなかでトイレの順番を待っている。トイレに入ると、後ろから話しかけてきた男がそのまま押し入ってきて、彼女の口を塞ぎ、ドアをロックしてしまう。彼女は、これは後で3人に話す武勇談になると思い、平静を装う。男はドレスを捲り上げるのだが、「君ってとても退屈だね」といって出ていってしまう。複雑な心境の彼女は…。


 

 

 

 宙ぶらりんの女たちをめぐる毒のある悲喜劇を面白がっていたら、彼女が“Slaves of New York”という短編集を出して、話題の女性作家になっていたことを知った。

 タマがこの短編集にたどり着くまでのプロセスはちょっと変わっている。彼女は大志を抱いてニューヨークへとやって来たが、小説が思うように売れず文無しになってしまい、アンディ・ウォーホルのスタジオで働くイラストレーターのアパートに転がり込んだ。それ以来、ニューヨークのアートとナイトクラブ・シーンにどっぷりと身を浸し、そんな世界を背景に、彼女の分身をヒロインとする実話ともフィクションともつかない悲喜劇を書くようになった。

 つまり、宙ぶらりんの女というのは彼女自身で、自信喪失状態のなかで奴隷的生活を満喫し(?)、そこで変な見栄を張ることもなくユダヤ人的な自嘲精神を大いに発揮し、成功を収めてしまったのだ。そういう意味では、同じニューヨークを舞台にして自分を笑うウディ・アレンの女性版といえないこともない。但し、単なる女性版ではなく、ポスト・ウーマンリブ時代のという形容をつけるべきだろう。

 話は少しそれるが、『赤ちゃんに乾杯!』というフランス映画をご記憶だろうか。簡単に内容を説明すると、歓楽に明け暮れるプレイボーイ三人組のもとに、ある日、生後間もない赤ん坊が送り届けられるところから物語が展開していく。彼らは、戸惑いながらも赤ん坊の面倒を見るうちに、母性と男には子供が産めないという決定的な性差に目覚めてしまう。三人はそろってこれまでのプレイボーイ・ライフの味気なさを痛感する。

 面白いのはそこからだ。彼らは、愛とか結婚の重要性に目覚めるのではなく(この映画では、このふたつの言葉が一度たりとも囁かれない)、子育てに彼らの輝ける主体性を見出す。

 タマの世界、あるいは主人公たちの思考回路は、この男たちのパターンを、ウーマンリブ以後のなかで道が定まらない女たちに置き換えたものに近い。タマの描く奴隷たちは、独力で逞しく生きることもできず、かといって旧来の価値観に明確に復帰することもできず、宙ぶらりんの状態に陥っている。彼女は、そんな女たちを自虐的な快感に浸りながら笑ってしまう。

かりに私が仕事上の安定、そして(あるいは)物質的な安定といったものをつかんだとしたら、私はフェミニストの運動に参加するだろう」(「一塁ランナーは誰?」)などという虫のいいことをいいながら、他力本願の奴隷ライフを送るのである。

 あるいは彼女は、犬に感謝すべきかもしれない。実際にこの短編集は、彼女の多くの友人とともにルルとビープビープという彼女の愛犬に捧げられている。彼女の短編には必ずといっていいほどに犬が登場する。明らかに犬へのオブセッションがある。「なにしろ家にいる時は一日じゅうアンドリューと二人きりで」(原文は「二人」が傍点で強調されている)といった具合で、彼女と犬の立場は同等なのである。彼女はおそらく犬を研究し、主人公の女たちのリアリティを生み出したに違いない。

 いずれにしても、奴隷ライフを逆手にとったしたたかさは一読の価値がある。


(upload:2013/01/02)
 
《関連リンク》
ニューヨークの表層化と再生の息吹
――80年代から現代に至る小説の流れを追う
■
ゲイ・フィクションの変遷
――アメリカン・ファミリーとの関係をめぐって
■
90年代のサバービアと家族を対照的な視点から掘り下げる
――カニンガムの『Flesh and Blood』とホームズの『The End of Alice』
■
中道化と個人主義のサバービアはどこに向かうのか
――ムーディの『Purple America』とホームズの『Music for Torching』
■

 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp