フラナリー・オコナー(1925‐1964)は、アメリカ南部の文学のなかでも、特異な作風で知られる作家である。彼女の『賢い血』や『烈しく攻むる者はこれを奪う』といった長編や短編集の底流には、常にキリストによる人々の救済という主題がある。
キリストによる救済とスプリングスティーン。一般的には、そこに接点を感じる人は少ないかもしれない。しかし実は、オコナーの小説に登場する人物たちは、そのほとんどが反宗教的な性格を持っているのである。
たとえば『賢い血』の主人公ヘイゼル・モーツは、“処刑されたキリストのいない真実の教会”の建設を目指し、オンボロ車に乗って反宗教的な説教をして回り、『烈しく攻むる者はこれを奪う』の主人公ターウォーター少年は、白痴の子供に洗礼を施すという、
大叔父によって与えられた使命から徹底的に逃避しようとする。オコナーの小説世界では、こうした主人公たちが反宗教的な行動をとればとるほどに、そこに主人公と宗教性との深い関係性が濃密に浮かび上がり、奇妙にねじれた世界像のなかで、
主人公たちは、神(あるいは真実)へと接近していくのだ。
この神への冒涜が神への接近へと変容していくオコナーの世界像は、キリスト教世界にほとんど縁のないわれわれには突飛なように思えるかもしれないが、スプリングスティーンがオコナーの作品に出会う以前と思われる時期に、
彼のなかにそうした要素の片鱗を見ている人間がいる。それは、彼のアルバム・デビューにひと役買ったジョン・ハモンドである。
スプリングスティーンのオーディションに立ち会ったハモンドは、反カトリック的な表現を散りばめた
<俺が司祭だとしても>
という曲にショックを受けた。その時の様子は、デイヴ・マーシュの『明日なき暴走』に詳しいが、
ハモンドは、この歌から受けた印象を「彼がユダヤ教徒ではないことはよくわかったのですが、あのような歌を歌う彼は、実はカトリック教徒でしかありえないことがわかりました」と語っている。
スプリングスティーンは、カトリックの教区学校に8年間通った。もちろん、そこが彼にとってふさわしい場所ではなかったことは、彼の歌詞が饒舌に物語っている。それはたとえば、
<俺が司祭だとしても>
に先立つスティール・ミル時代の作品、日曜日に教会に行くことを強要する母親に対して、金曜日の教会における冒涜的な懺悔を歌う「復活(レザレクション)」(その演奏はブートレグで耳にすることができるが、
起伏の激しい攻撃的なサウンドで、演奏が20分あまりもつづく)にも顕著であるし、アルバム・デビュー以後も、反宗教的な歌詞、あるいは罪という言葉が彼の歌から完全に消えてしまうことはなかった。
彼はアルバム『明日なき暴走』の内容を、オーソドックスな宗教とは違うが、宗教的な探求のようなものだとも語っている。彼がいつ頃オコナーの作品と出会ったのかは定かではないが、すでにそれ以前から、彼自身がオコナーの世界に通じる意識を育みつつあったことは間違いないだろう。
アルバム『ネブラスカ』は、彼の内側に培われた特異な宗教観や世界観が、『地獄の逃避行』やオコナーの作品に触発されることによって凝縮、露呈しているという意味で、彼にとって最も個人的なアルバムになっていると思う。
『ネブラスカ』にはタイトル曲を筆頭に、
<アトランティック・シティ>
の冒頭や懲役99年の判決のために“ジョニー99”と呼ばれる男を歌った
<ジョニー99>
、あるいは
<ハイウェイ・パトロールマン>
に歌われるフランキーの犯行など、暴力的な描写が目立つ。
オコナーもまた、主人公の反宗教的でグロテスクなキャラクターを強調すると同時に、その背後にある彼女の主題を際立たせるために、異常な暴力を頻繁に描く。たとえば短編「善人は見つけにくい」はその好例だろう。
これは三人の脱獄犯が逃走中に出会った平凡な人々を次々と殺害する物語だが、オコナーは、この単純な物語をあたかも日常の出来事であるかのように淡々と綴っていく。にもかかわらず、この救いのない物語には、ある種の不思議な静けさというか、奇妙な安らぎのようなものが漂っている。
この感覚はなかなか言葉では表現しがたいものだが、スプリングスティーンの「ネブラスカ」はこれに近い雰囲気を持っている。オコナーはこうした表現スタイルについて、次のような分析を加えている。
「グロテスクな小説を書く作家は、最少量の表現が不可避な方法で作業をする、と私は思う。なぜなら彼の作品にあっては、もともとの隔たりが非常に大きいからである。彼は、ある二点を結びつけ、通い合わせ、一体化するためのイメージを探すわけだが、
一方は具象界にある点であり、他方は肉眼には見えない点なのだ。(中略)こうした小説が結びつけようと計る二点の懸隔が甚だしいものである以上、作品の様相が狂気じみ、ほとんど必然的に過激な喜劇性を帯びることは、いまさら指摘するまでもない」
たとえば、
<ジョニー99>
や
<生きる理由>
は、この過激な喜劇性に該当する。オコナーにとって、肉眼では見えない点とはキリストの存在や神がもたらす救済であるのかもしれない。スプリングスティーンの場合はそうではない。彼にとって見えない点とは、国家や社会、家族や友人、
仕事といったあらゆるものから孤立しつつある人々を繋ぎとめる効力を持つもの、真実や希望という言葉に簡単に置き換えがたいある本源的なものなのだ。
彼は宗教や国家を批判すればそれが変わるとは思ってないし、労働者や若者の不満をゴキゲンなロックンロールのリズムに乗ってぶちまけ、疾走することによって得られる共有意識すら信用しているとは思えない。彼が求めているのは、変わらない、どこにも行くことができない世界のなかで、
自分を見失うことのないように繋ぎ止めることを可能にする安らぎのようなものだ。こうしたある種の宗教性が、彼をそれ以前のロックやフォーク・シンガーとも、あるいは、パンク以降のミュージシャンとも異なる地平に押し出している。
『アズベリーパークからの挨拶』でニュージャージーを旅立った彼は、ニューヨークという都市の暗闇に鋭い眼差しを向け、『明日なき暴走』でひとたびその向こう側に突き抜けてしまうと同時に、ロックスターの座を手にした。しかしそれ以後、『闇に吠える街』『ザ・リバー』へと、労働者、家族、故郷、
そして孤立ではなくある種の強調といった主題にその矛先を転じることによって、ニュージャージーに再び深く根を下ろし始めた。
『ネブラスカ』では、暴力性を秘めたグロテスクな物語とともに、彼の内なるニュージャージーが、感情の起伏を抑えた簡潔な語り口のなかに浮かび上がってくる。
彼は、
<マンション・オン・ザ・ヒル>
<ユーズド・カー>
<僕の父の家>
といった曲で、自己の体験をデフォルメし、それをニュージャージーという土地のディテール、風景によって語ろうとしているように見える。それは、『アズベリーパークからの挨拶』以来の風俗をアクチュアルに描写する彼の魅力とは異なる眼差しであり、
直接的に何かを訴えかけるというよりも、書かれた言葉の力によって心象風景だけを伝えようとしているかのようだ。
この心象風景の向こう側に何かを探し求める彼の姿勢は、やはりオコナーを想起させる。彼女は「作家と表現」と題された小論文のなかで、「われわれ作家の進む方向は、伝統的小説よりも詩のほうになるに違いない」とした後で、次のように書いている。「このような作家にとっての問題は、
対象を破壊せずにどこまでデフォルメできるか、その限度を知ることだろう。破壊せずにすますためには、彼は、作品の生命の源泉に達するまで自分のなかに深く降りていかなければなるまい。この内面への下降は、同時に作家の属する土地への下降でもある。馴れ親しんだものが形成する闇の層を突き抜けて、
福音書に出てくる開眼した盲人のように、人間が歩く木に見えてくる所まで降りていくのである。これが預言者的視覚のはじまりなのだ」
オコナーにとって土地への下降はジョージアであり、スプリングスティーンにとってはまぎれもなくニュージャージーだ。彼は記憶をさかのぼり、?馴れ親しんだものが形成する闇の層を突き抜けて?、その向こう側にある普遍的なものを伝えようとしているのだ。
『ネブラスカ』を中心に書いてきたが、「ミュージシャン」誌に掲載された『明日なき暴走』の続編ともいうべきデイヴ・マーシュの「グローリー・デイズ」の抜粋記事によれば、『ボーン・イン・ザ・USA』は、『ネブラスカU』になるのではないかという危機感をはらんでいたようだ。
結果的には、『ボーン〜』は『ネブラスカ』のロックンロールへの発展を成し遂げたわけだが、その危機感には『ネブラスカ』というアルバムに対するスプリングスティーンのオブセッションを垣間見ることができる。 |