70年代半ばに強烈な竜巻に襲われたオハイオ州の町ジーニアを舞台に、疲弊したコミュニティの日常を描いたハーモニー・コリンの初監督作品『ガンモ』。この映画の冒頭では、犬が屋根のテレビ・アンテナに突き刺さっている光景が映しだされる。この光景は、このコミュニティが、社会や人間を均質化し、表層化するメディアから取り残された世界であることを暗示している。
コリンはこの映画のなかに、映画やテレビといった映像メディアの発達によって隅に押しやられ、消え去ることになった生身の身体を武器とする見世物のイメージを散りばめている。コリン自身がゲイの若者に扮して黒人の小人を誘惑する場面は、ブラウニングの『フリークス』に描かれるサイド・ショーの世界を連想させる。自転車でうろつく二人組の少年たちのやりとりには、ヴォードヴィルの芸が盛り込まれ、
その片方の少年の母親は、自分の家の地下室で、タップダンサーだった亡夫が愛用していた靴を取りだし、異様な姿でタップを踊ろうとする。
『ジュリアン』では、主人公ジュリアンの父親と、両手がないためにすべてを足でこなしてしまう男が、カードに興じる場面に、「テレビと現実は違う」という台詞がある。そんなことは当たり前だと誰もが思うかもしれないが、コリンほどその事実を純粋に受け止めている作家も少ないのではないかと思う。
たとえば、この映画では、盲目の少女スケーターの姿が印象に残る。
なぜなら彼女は、他者の視線によって作られているのではなく、純粋に内面からスケーターであろうとする。それが生身の身体に強度を与えているのである。
『ジュリアン』の登場人物たちは、そんなふうに自分の身体で生き、自己のオブセッションに忠実に映像のなかに存在している。精神分裂病である主人公ジュリアンは、盲学校で目の見えない生徒たちに献身的な姿勢を見せ、バプティスト教会の礼拝で感動の涙を流しながら、同時に、突然、子供に襲いかかったり、ナチに傾倒する攻撃的な面を持ち合わせている。
また亡き母親を慕うあまり、彼女の死を完全に受け入れることができない。そのため、間もなく未婚の母になろうとする姉が、時に母親を演じている。彼らの父親は、レスラーを目指すジュリアンの弟を異様な執念で鍛え上げる一方で、母親の面影があるこの息子に彼女の服を着せて、ダンスを踊るという欲望を抑えることができない。
この映画の撮影を手がけたのは、トマス・ヴィンターベアのドグマ#1『セレブレーション』のカメラマン、アンソニー・ドット・マントル。ヴィンターベアはこの作品でビデオ・カメラを併用した利点について、「俳優がカメラの存在を忘れて演技できた」と語っていた。デジタル・ビデオで撮影された『ジュリアン』では、コリンの発案で小型の監視カメラが多用され、そうした利点が突き詰められている。
さらにデジタル画像を複雑なプロセスでフィルムに落とすことによって、対象を極限までデフォルメし、この家族の世界から聖なるイメージをあぶりだしている。 |