ペットの猫と戯れる以外に何もやることがない三人姉妹は、自分たちの乳首を粘着テープで刺激して暇を潰している。パーティに集まった町の男たちは、酒の勢いで壮絶な取っ組み合いをはじめる。白人のゲイの若者は、黒人の小人を誘惑する。
こうして並べてみると一体どんな映画なのかと思われるだろうが、確かにこの映画の魅力を言葉にするのは簡単なことではない。プレス資料にあるように、ダイアン・アーバスやカサヴェテス、フェリーニやヘルツォークなどと対比されるのもわからないではない。
が、それはあくまでスタイルにある種の共通点があるということで、ここでコリンが描く世界はもっと現代的な視点がある。
実は筆者がこの『ガンモ』にはまってしまったのは、ひとつには、その世界が、アメリカで異彩を放っているゲイの作家/詩人デニス・クーパーの世界を彷彿させるように思えたからだ。『ガンモ』がアメリカ中部のホワイト・トラッシュの世界をいているのに対して、クーパーは主に西海岸の中流の世界を描くというように、
具体的な設定には開きがあるが、彼らの世界はもっと深いところで共鳴するところがある。
クーパーの連作短篇集『クローサー』では、物語の語り手となる主人公が次々とかわりながら、登場人物たちが共有する世界の出来事が綴られていくことになるが、視点がかわり、どこまで話が進もうとも世界の現実感は希薄になるばかりだ。そして、セックスや暴力を通して、彼らが欲望と不安に満ちた肉の固まりで、
過去も未来もない刹那的な思い込みの世界をさまよっているという事実だけが浮き彫りにされていく。たとえば「ガンモ」とはそのような映画であり、どちらも死のイメージが作品を支配している。
クーパーの『TRY』では、セックスと虐待という暴力で繋がる主人公の少年と彼のふたりの父親の関係が、作られたアメリカン・ファミリーのイメージを拭い去る。そして少年たちは、希薄な現実感のなかで、パンク、デス・メタルやサタニズムへと思い込みを広げていく。「ガンモ」でも、
竜巻のエピソードが作られた表層を剥ぎ取り、さまよえる少年たちのドラマの背景には、デス・メタルの音楽やサタニズムのイメージが挿入される。
しかし、コリンのすごいところは、彼が20代前半とは思えないような題材から、世界に揺さ振りをかけるイメージをたぐりよせてくるところにある。たとえばこの映画には、映画やテレビといった映像メディアの発達によって隅に押しやられ、消え去ることになった生身の身体性を武器とする見世物が随所に引用される。
コリン自身がゲイの若者に扮して黒人の小人を誘惑する場面は、ブラウニングの『フリークス』に描かれるサイド・ショーの世界を連想させる。自転車でうろつく二人組の少年たちのやりとりには、ヴォードヴィルの掛け合いが盛り込まれ、その片方の少年の母親は、自分の家の地下室でタップダンサーだった亡夫が愛用していた靴を取りだし、
異様な姿でタップを踊ろうとする。この映画の冒頭には、竜巻によって犬が屋根のテレビ・アンテナに突き刺さっている映像が挿入されるが、コリンは社会と人間を均質化するメディアから取り残された世界を構築し、人間の有り様をユニークな視点から見直しているのだ。
また、この映画の舞台がアメリカ中部という設定であるにもかかわらず、実際にはコリンが育った南部、ナッシュヴィル郊外のホワイト・トラッシュの町で撮影されているというのも非常に興味深い。なぜならそこには自ずと南部のゴシック的な空気が漂いだすからだ。コリンが好きな作家としてフラナリー・オコナーの名前をあげるのも頷ける。
彼女は南部の土壌から独自の暴力的で畸形的、かつ宗教的な世界を作りあげたが、コリンもまたそんな南部のゴシック的な空気を中部の町に引き込み、現代的なデス・メタルやサタニズムと結びつけることによって独自の世界を構築しているのだ。
コリンは、そんな世界を視覚化するために、8ミリ、ヴィデオ、ポラロイドなどを自在に映像に挿入しているが、そこには映像そのものにも異形の身体性を取り込もうとする野心を垣間見ることができるだろう。 |