ラリー・クラークとハーモニー・コリンという『KIDS』のコンビの映画だからといって、ティーンに対する視点や描写ばかりに注目や期待をするのは大きな間違いだ。ドラッグ、暴力、セックス、マスターベーションなど、ティーンの欲望が剥き出しになってはいるが、それが映画の中心にあるわけではない。
この映画では、クラーク、そして『ヴァージン・スーサイズ』や『エデンより彼方に』の撮影でサバービアと接点を持つエド・ラックマンがふたりで監督と撮影を兼任している。彼らが目を向けているのは、サバービアに暮らす親と子の関係であり、映像は、サバービアで年を取るとはどういうことなのかを浮き彫りにしていく。
サバービアには、すべてが新品の状態から新しい生活を始め、それをずっと続けていけるかのような幻想がある。だからこの映画にもあるように、キッチンなどを磨きたてるのだが、それでも人は年を取っていく。だが、年はとっても成熟していくことに意味を見出すことはできない。価値があるのは、新しいこと、若いことであるからだ。年を取っていく親は、何とか若さを保とうとし、それが難しくなると子供の若さを羨むようになる。
この映画には、5人のティーンが登場する。最初に登場するケン・パークは、あっという間に自殺してしまうが、映画のラストでその死に再び光があてられ、意味が膨らむ。残りの4人は、親との関係によって、ショーン、クロード、ピーチーズの3人とテートに分けることができる。彼らは、年を取るということをめぐって対照的な立場にあるといってよいだろう。最初の3人は、様々な意味で親たちに若さを搾取されている。
ショーンは、ガールフレンドと彼女の母親の両方と付き合っている。彼が真っ昼間にその母親を訪ね、ベッドに誘うとき、部屋に飾られた写真のなかに、母親の過去が垣間見える。彼女と夫は、ハイスクール時代にアメフトの選手とチアガールとして注目の的になっていたのだろう。しかしいまではそんなふうに注目を集めることはない。彼女は若さを保っているが、スポーツをやめてビジネスマンになった夫は昔とは違う。まだ母親になり切れない彼女は、ショーンの押さえられない欲望を利用し、快楽を貪る。
クロードの父親は、鍛え上げた筋肉を息子に誇示し、威張り散らすが、その衰えを隠すことはできない。若さを失えば、彼に残されているのは、ビールとテレビの毎日だけだ。そんな彼は、自分の醜さに苛立ち、若さに嫉妬し、クロードに暴力を振るう。そして、へべれけに酔って帰宅した夜、耐えがたい孤独ゆえにクロードが寝ているベッドに潜り込み、彼の身体をまさぐってしまう。
物静かな少女ピーチーズの父親は、敬虔なクリスチャンに見える。しかしそれは、決して純粋な信仰ではなく、妻に先立たれた孤独から目を逸らす逃避的な行為であり、彼は、日に日に母親に似てくるピーチーズに歪んだ喜びを覚え、信仰を強要する。管理された生活を送るピーチーズは、父親の目を盗んでボーイフレンドとセックスしている。そのセックスでは、彼女はボーイフレンドをベッドに縛り付け、主導権を握ろうとする。 |