写真家ラリー・クラークが監督した映画『KIDS』と北野武監督の新作『キッズ・リターン』は、映像から浮かび上がるキッズの存在、それぞれの作家のキッズへの眼差しというものが、どこまでも対照的である。
その違いは、キッズであることのリアリティについて考える手がかりを与えてくれる。
『KIDS』は、ニューヨークの街角にたむろするキッズの24時間を、テリーという少年とその親友キャスパー、そしてジェニーという少女を軸として描きだしていく。物語は、テリーがベッドの上である少女を言葉巧みに口説き落とし処女をいただくところから始まる。
彼は処女をものにすることばかり考えているのだ。そんなテリーと相棒キャスパーは街をうろつき、喉が渇けばコンビニで万引きし、親の金をくすねてキッズが群れる公園でマリファナをやり、気に入らない奴がいれば寄ってたかっていためつけ、
そしてまた女の子を漁りにいく。
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一方ジェニーは、女の子の仲間たちと初めての体験やらフェラチオやらとあけっぴろげなセックスの話に興じている。そこには、人種や階層のギャップといったものは見当たらず、刹那的で衝動的なキッズの日常がありのままに映しだされる。
ところが、このKIDSの日常にAIDSという要素が入り込むことによって、ドラマは異質な緊張をはらみだす。ジェニーは友だちに付き合って受けた検査で自分がHIVポジティヴであることを知る。彼女の経験といえば、テリーの口車に乗せられた一回だけだ。
そこで彼女は、テリーを探して街を彷徨うことになるのだが、映画の結末には何とも虚しい幕切れが準備されている。
この映画から浮かび上がるキッズの生態は実に生々しく、これまでの映画にはない新鮮さがあることは間違いない。しかし筆者にはどうしても引っかかるものが残り、この映画が好きになれない。それは、
物語のひとつのポイントとなるHIVポジティヴという現実に対するキッズの反応、姿勢といったものが最後まで明らかにされないことだ。テリーは結局その事実を知ることなく、ジェニーの感情は、クスリで朦朧とする意識の彼方に消し去られてしまう。
そんな結末の空白に詩的な余韻を感じる人もいるのだろうが、筆者には狡猾なラストにしか見えない。そして、『キッズ・リターン』を観ると、そういう印象がさらに強くなるのである。
この映画は、冒頭でも書いたように「KIDS」とは見事に対照的な作品である。まず何よりもこの映画の場合には、現代のキッズの生態を具体的で生々しい映像でとらえようとするといった姿勢はまったく見受けられない。
設定は一見すると現代を思わせないこともないが、いざ物語が動きはじめると突然時間がたわむように過去へとさかのぼり、ふたりの高校生の体験が綴られていく。
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そのふたりとは、負けず嫌いで何でも自分で仕切らないと気のすまない兄貴タイプのマサルと主体性がなくいつもマサルの後をついてまわるシンジ。彼らは、かつあげのカモにしている生徒が連れてきたボクサーにあっさり殴り倒されたことがきっかけで、
ボクシング・ジムに通いだす。ところが皮肉なことにシンジの方がめきめき上達し、マサルはヤクザの世界に入り込む。結局、ふたりは、別々の世界でのし上がろうとし、苦い挫折を味わうことになる。
北野武の映画はストーリーを語ってもあまり意味がないので詳しくは語らないが、この映画ではこうした展開のなかで、キッズの存在がある一点だけで現代へと鋭く切れ込んでくる。それは死と隣り合わせにあるサバイバルのイメージといっていいだろう。
この映画では、これまでの北野作品のように主人公が死ぬことはないが、サバイバルのなかで彼らが体験する苦い挫折には死のニュアンスが色濃く漂い、ふたりのキッズの象徴的な死と再生の物語になっていく。そして、このサバイバルと挫折の瞬間に、
ノスタルジックな雰囲気を突き抜けて、"キッズであること"の現代的なリアリティが浮き彫りになるのである。