“キッズ”であることのリアリティとは
――『KIDS』と『キッズ・リターン』をめぐって



KIDS/KIDS――――――――――― 1995年/アメリカ/カラー/92分/ビスタ(1.1.85)
キッズ・リターン / Kids Return――― 1996年/日本/カラー/108分/ビスタ
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(初出:「骰子/DICE」No.15,1996年7月、若干の加筆)

 

 

 写真家ラリー・クラークが監督した映画『KIDS』と北野武監督の新作『キッズ・リターン』は、映像から浮かび上がるキッズの存在、それぞれの作家のキッズへの眼差しというものが、どこまでも対照的である。 その違いは、キッズであることのリアリティについて考える手がかりを与えてくれる。

 『KIDS』は、ニューヨークの街角にたむろするキッズの24時間を、テリーという少年とその親友キャスパー、そしてジェニーという少女を軸として描きだしていく。物語は、テリーがベッドの上である少女を言葉巧みに口説き落とし処女をいただくところから始まる。 彼は処女をものにすることばかり考えているのだ。そんなテリーと相棒キャスパーは街をうろつき、喉が渇けばコンビニで万引きし、親の金をくすねてキッズが群れる公園でマリファナをやり、気に入らない奴がいれば寄ってたかっていためつけ、 そしてまた女の子を漁りにいく。

 一方ジェニーは、女の子の仲間たちと初めての体験やらフェラチオやらとあけっぴろげなセックスの話に興じている。そこには、人種や階層のギャップといったものは見当たらず、刹那的で衝動的なキッズの日常がありのままに映しだされる。

 ところが、このKIDSの日常にAIDSという要素が入り込むことによって、ドラマは異質な緊張をはらみだす。ジェニーは友だちに付き合って受けた検査で自分がHIVポジティヴであることを知る。彼女の経験といえば、テリーの口車に乗せられた一回だけだ。 そこで彼女は、テリーを探して街を彷徨うことになるのだが、映画の結末には何とも虚しい幕切れが準備されている。

 この映画から浮かび上がるキッズの生態は実に生々しく、これまでの映画にはない新鮮さがあることは間違いない。しかし筆者にはどうしても引っかかるものが残り、この映画が好きになれない。それは、 物語のひとつのポイントとなるHIVポジティヴという現実に対するキッズの反応、姿勢といったものが最後まで明らかにされないことだ。テリーは結局その事実を知ることなく、ジェニーの感情は、クスリで朦朧とする意識の彼方に消し去られてしまう。 そんな結末の空白に詩的な余韻を感じる人もいるのだろうが、筆者には狡猾なラストにしか見えない。そして、『キッズ・リターン』を観ると、そういう印象がさらに強くなるのである。

 この映画は、冒頭でも書いたように「KIDS」とは見事に対照的な作品である。まず何よりもこの映画の場合には、現代のキッズの生態を具体的で生々しい映像でとらえようとするといった姿勢はまったく見受けられない。 設定は一見すると現代を思わせないこともないが、いざ物語が動きはじめると突然時間がたわむように過去へとさかのぼり、ふたりの高校生の体験が綴られていく。

 そのふたりとは、負けず嫌いで何でも自分で仕切らないと気のすまない兄貴タイプのマサルと主体性がなくいつもマサルの後をついてまわるシンジ。彼らは、かつあげのカモにしている生徒が連れてきたボクサーにあっさり殴り倒されたことがきっかけで、 ボクシング・ジムに通いだす。ところが皮肉なことにシンジの方がめきめき上達し、マサルはヤクザの世界に入り込む。結局、ふたりは、別々の世界でのし上がろうとし、苦い挫折を味わうことになる。

 北野武の映画はストーリーを語ってもあまり意味がないので詳しくは語らないが、この映画ではこうした展開のなかで、キッズの存在がある一点だけで現代へと鋭く切れ込んでくる。それは死と隣り合わせにあるサバイバルのイメージといっていいだろう。 この映画では、これまでの北野作品のように主人公が死ぬことはないが、サバイバルのなかで彼らが体験する苦い挫折には死のニュアンスが色濃く漂い、ふたりのキッズの象徴的な死と再生の物語になっていく。そして、このサバイバルと挫折の瞬間に、 ノスタルジックな雰囲気を突き抜けて、"キッズであること"の現代的なリアリティが浮き彫りになるのである。


―KIDS―

 Kids
(1995) on IMDb


◆スタッフ◆

監督
ラリー・クラーク
Larry Clark
製作 ケイリー・ウッズ
Cary Woods
脚本 ハーモニー・コリン
Harmony Korine
撮影 エリック・エドワーズ
Eric Edwards
編集 クリストファー・テレフソン
Christopher Tellefsen
音楽 ルー・バーロウ/ジョン・デイヴィス
Lou Barlow/John Davis

◆キャスト◆

テリー
レオ・フィッツパトリック
Leo Fitzpatrick
キャスパー ジャスティン・ピアース
Justin Pierce
ジェニー クロエ・セヴィニー
Chloe Sevigny
ルビー ロザリオ・ドウソン
Rosario Dawson
ハロルド ハロルド・ハンター
Harold Hunter
ダーシー ヤキーラ・ベゲーロ
Yukira Peguero


―キッズ・リターン―

 Kizzu ritan
(1996) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本/編集
北野武
プロデューサー 森昌幸/柘植靖司/吉田多喜男
撮影 柳島克巳(J.S.C)
編集 太田義則
音楽監督 久石譲

◆キャスト◆

マサル
金子賢
シンジ 安藤政信
担任の先生 森本レオ
ジムの会長 山谷初男
ヒロシ 粕谷享助
サチコ 大家由祐子
ヤクザの親分 下條正巳
サチコの母 丘みつ子
ヤクザの組長 石橋凌
 
 
 


 『KIDS』と『キッズ・リターン』の見事に対照的なところは、前者では、現代のキッズの日常がありのままに描かれながら、死を背景としたサバイバルと挫折が、観客の想像に委ねられるのに対して、後者では、現代のキッズ像というものをほとんど無視しながら、 『KIDS』では具体的に描かれないその一点で現代に切り込んでくるところにある。この違いは、ラリー・クラークがキッズの時代を通過した大人の視点を拒絶し、キッズの視座そのままにキッズを描こうとしているのに対して、北野武の場合は、 きっぱりとその時代を通過した人間の視点でキッズを描いているということもできる。だから『KIDS』の場合には、キッズがキッズであることの自覚を迫られるような状況については、それを観る者に委ねるというわけだ。

  それでは今度は、キッズの時代を通過した大人の視点を拒絶するということについて、『KIDS』とある短編集を比較してみたい。それはアポロという黒人作家が最近発表した短編集『CONCRETE CANDY』である。アポロは80年生まれで、12才から小説を書きはじめ、 13才で作品が初めて雑誌に紹介されたという経歴の持ち主で、今年出版されたこの短編集には、15才の作品が集められている。彼の場合は、黒人のキッズであるという点では『KIDS』とは少し異質ということになるかもしれないが、オークランドの都市部を舞台とした短篇からは、 人種の問題もさることながら、キッズであることのリアリティが鮮烈に浮かび上がってくる。

 たとえば、<Four Wolves and a Panther>〉という短篇では、黒人になりたい13才の白人少年の物語が描かれる。彼は、黒人にかぶれていることが原因で両親から家を追いだされ、黒人のストリート・キッズのグループに入り、本当の黒人になりたいと言いだす。 そこで黒人のメンバーたちは、彼らの母親の化粧品を使って少年を黒人に変身させ、客が白人ばかりのショッピング・モールに繰りだす。モールのなかで一人歩きを始めた彼は、白人のキッズが自分を恐れているのを感じる。そして次の瞬間、彼は自分を見つめている男に気づき、 口が開きっぱなしになる。それは自分の父親だったのだ。その父親は彼にどこかで会ったかと尋ね、彼は黙って首を振る。そこで彼は、父親からニガーのガキとして追い立てられることになるのだ。

 アポロは、キッズの日常を活き活きと描き、ささやかでありながら非常に象徴的でもあるエピソードを通して、サバイバルと挫折、キッズであることを鋭く表現している。このアポロの視座と『KIDS』のそれを対比するとどういうことになるのか。 この場合も、小説を書くという自覚的な意識だけアポロはキッズを通過した視座にあり、ラリー・クラークの場合はキッズの視座にあるということになるのだろうか。筆者は、キッズであることのリアリティをとらえるということは、 無自覚な衝動や欲望と余儀なくされるサバイバルのぎりぎりの接点をとらえることであると思う。アポロはまさにそれを実践しているし、「キッズ・リターン」もその接点だけは外していないが、『KIDS』は、無自覚な衝動や欲望をリアルに描いているに過ぎない。

 そこでさらに『KIDS』と対比してみたいのが、最近の村上龍の小説の世界である。しばらく前のあるインタビューで村上龍は、セックスやドラッグ、暴力は巷の子供の平凡な日常と化してしまってそれを描いても退屈だといったことを語っていた。 そんな彼が強い関心を持っているのが、最近の作品『KYOKO』、そして『五分後の世界』の続編『ヒュウガ・ウイルス』で明らかなようにウイルスなのだ。『KIDS』が、セックス、ドラッグ、暴力の退屈な日常をしたたかに描きながら、ウイルスを留保しているのに対し、 村上龍は、前者を切り捨て後者に深くこだわる。この村上龍の場合も、キッズを通過した大人の視座といわれればその通りかもしれないが、よくよく考えるなら、セックス、ドラッグ、暴力もすべて大人からキッズに浸透しているものであり、 特に現代ということにこだわってキッズであることのリアリティをとらえようとするのなら、ウイルスこそがキッズであることを浮き彫りにする鍵になるはずである。

 そういう意味で筆者は、『KIDS』の処女キラーであるテリーが、HIVポジティヴという現実に対してどういう反応を示すのかどうしても見たくなる。もしかすると、あどけない表情で笑い飛ばし、ウイルスをまき散らすかもしれない。 あるいは、群れてる連中はそういうキッズをどう受け入れるのか。そこをぼかしてしまう『KIDS』からは、現代のキッズの真実が見えてくるはずはない。だから筆者はこの映画が好きになれないのだ。

 

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