数年前、『アサシンズ』で来日したマチュー・カソヴィッツは、この映画に描かれる世代の異なる三人の登場人物の絆について、こう語っていた。「現代では、何を伝達すべきか無自覚なテレビが、教師や両親に取って代わり、知識や経験が子供に受け継がれなくなっている」。昨年、本誌でダルデンヌ兄弟にインタビューしたとき、彼らは、『イゴールの約束』と「ロゼッタ」の主人公である少年少女について、こう語っていた。
「イゴールの父親は、もはや息子に伝えるべき遺産を持っていません。ロゼッタの母親も、自分が繰り返してきた失敗を除けば、娘に伝えるべき遺産がないのです。だから過去の記憶が子供たちに、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれないのです」
これらのコメントは突き詰めれば、現代には、個人と世界を繋ぎ、かたちを変えながらも次の世代に引き継がれていく物語が失われていることを意味している。それだけに、いまという時代のなかで、物語をとらえ直し、あるいは再生することは、重要なテーマとなっている。たとえば、空虚な日常のなかで短絡的に殺人を犯した『クリミナル・ラヴァーズ』のカップルが、森のなかで<ヘンゼルとグレーテル>の物語を生き、
現代を象徴するような不毛の砂漠で孤立した『キング・イズ・アライヴ』の登場人物たちが<リア王>を生きるように。
もちろんそれは、ただ漠然と物語をなぞることではない。単なる虚構ではなく、現実に根ざした物語の強度をしっかりと受けとめることによって、自分と世界の繋がりを取り戻すということだ。これは決して容易いことではない。歴史や伝統など、あらゆる物語の基盤が失われた現代では、あらかじめ他者との共有を前提とした物語など存在しない。独力でその強度を勝ち取るしかないのだ。だから、映画は生死の境界に立つようなドラマになる。
そして、日本映画も例外ではない。というよりもむしろ、不気味なまでに均質化が進んだこの国でこそ、こうしたテーマが最も重要なものになっているというべきだろう。たとえば、仮想戦闘ゲームの空間に依存し、自分が守ってきたわずかばかりの現実も失った「Avalon」のヒロインは、
<アーサー王伝説>
の物語を生きようとし、リセット不能の空間を目指して死闘を繰り広げる。『非・バランス』がバディ・フィルムとして異色なのは、
物語の強度をテーマにしているところにある。中学生のヒロインは、同級生たちがただ退屈な日常を紛らすために共有、消費するたわい無い噂話の世界に、偶然出会ったオカマを引き込み、物語を構築していく。そしてこの映画は、彼女が自力で獲得した物語を他者に語りだすところで終わる。
青山真治監督の「EUREKA」は、こうしたテーマの広がりのなかで異彩を放つ映画だ。彼が、現代という時代のなかで、個人と世界を繋ぐものとしての物語を意識していることは、以前の「シェイディー・グローヴ」を振り返ってみるとよくわかる。この映画には「クリミナル・ラヴァーズ」と共鳴する部分が多々ある。フランソワ・オゾンは「クリミナル〜」で、前作『ホーム・ドラマ』の舞台であるサバービアの対極にあるものとして、
森のイメージをたぐり寄せ、物語の象徴とした。
「シェイディー・グローヴ」にもそれに通じるコントラストがある。ヒロインの記憶には、かつて存在した森があり、そこにはささやかな物語があったが、現在ではその森は切り開かれ、新興住宅地と化している。そして彼女は、形骸化した両親との関係と恋愛マニュアルに支えられた日常を送っている。しかし偶然出会った若者が、彼女のこの消えた森に迷い込むことから、自分と世界の繋がりを見出していく。
あるいは、すべてが表層化した生活を送っていた彼女は、森に象徴される自分の影の部分を再発見し、見えないところで他者と通じ合えるようになるのだ。
「EUREKA」は、現代の日常とこの森の関係をさらに掘り下げる作品といえる。この映画は、舞台となる九州で凄惨なバスジャック事件が起こるところから始まる。同じ九州で実際に似たような事件が起こったことから、この映画に対する関心がさらに膨らむ傾向もあるようだが、これはそういう興味を満たす映画ではない。青山監督の「冷たい血」の冒頭で起こる、新興宗教の幹部射殺事件と同じように、
バスジャックは必ずしも重要な位置を占めるわけではない。それは、登場人物たちの生き方を変えるきっかけに過ぎないからだ。 |