物語へのこだわりは、ゴーストタウンに暮らすカナナの存在だけでもよくわかる。彼は間違いなく「リア王」を知らないが、物語については身体で知っている。アフリカには口承文学の伝統があるが、彼もその語り部のひとりだ。この映画は「何が起きたのか、それを話して聞かせよう」という彼の言葉で始まり、そして彼の言葉で終わる。
それは、これが現実のドラマであると同時に、語り部を通して語り継がれる物語であることを意味している。このカナナの物語には、ただ目に見えることを語るだけではない洞察が含まれているが、それはまた後で触れることにしたい。
バスの乗客のなかにも、ただひとりだけ物語を身体で知る人物がいる。もちろんそれはヘンリーだ。この映画で、彼が他の乗客たちの様子を見つめながら、「リア王」を連想する場面はとても印象的である。その時、彼はカナナと肩を並べるように座っている。レヴリング監督は、このふたりに同じ視座を与えることによって、物語を知る人間と知らない人間を明確に分けているのだ。
他の人々が物語と無縁であることは、劇のリハーサルによく表れている。役をもらった人々は、途切れ途切れの棒読みを始める。彼らにとってシェイクスピアは自分たちとは無縁の遠い世界の物語なのだ。ところが、王に扮するアシュリーが倒れると、感情を剥き出しにして争う。その極端な落差には、物語と現実の隔たりを見ることができるが、この登場人物同士の感情の軋みこそが、彼らを「リア王」の世界に引き込んでいくことになる。
シェイクスピアの傑作「リア王」からは様々な意味を読み取ることができるが、この映画でレヴリング監督が特にこだわっているものに、”言葉”がある。リア王は、自分に対する三人の娘たちの愛を言葉で確かめようとする。そして、美辞麗句で飾り立てたゴネリルとリーガンの言葉を受け入れ、コーディーリアの誠実な言葉を拒絶する。この言葉のやりとりがすべての悲劇の始まりとなる。
この映画でも、「リア王」の準備を始める段階から、言葉に対する裏切りがある。ヘンリーは最初、カトリーヌにコーディーリアの役を頼む。彼女はこの役に関心を持っているにもかかわらず、妙な自意識から受け入れることができない。そんなカトリーヌが、ジーナのリクエストに答えてフランス語で語る場面にも言葉の裏切りがある。彼女は、ジーナがフランス語がわからないことをいいことに、彼女を屈辱する。
しかも、昔話というかたちをとることによって、彼女が物語そのものを冒涜していることがわかる。
この映画の登場人物たちの大半は、自分に正直に言葉を使おうとはしない。カナナはそんな彼らを見つめながら、その様子を「彼らはたくさんの言葉を話すが、語り合ってはいなかった」と表現する。しかし、それゆえに彼らのドラマは、確実に「リア王」へと近づいていく。他の人々とは違って自分に正直なジーナもまた、確実にコーディーリアに同化していく。そんなジーナを見ながら、物語の力というものに気づくカトリーヌは、ただひとりでコーディーリアを演じ始める。
そして、彼らの現実が「リア王」を超えて、独自の物語の領域に踏み出す瞬間が訪れる。それは、チャールズが参加した劇のなかで、リズ扮するゴネリルが王への美辞麗句に満ちた台詞を語り終えたときだ。ヘンリーは、本来コーディーリアに向けられる冷酷な台詞を、あたかもゴネリルに答えるかのように言い放つ。そこには偽りの言葉に対する怒りが秘められているに違いないが、これまで外部から劇をコントロールしてきた彼がこの台詞を口にしたことによって、現実全体が「リア王」となり、物語は悲劇へと向かっていく。
彼らは物語を生き、物語の力で生き延びる。そして、ジーナの犠牲によって、自分に誠実な言葉を獲得し、人間として生きていく道が開かれる。カトリーヌが深い悲しみに沈むのは、ジーナが自分の身代わりとなったことを痛感するからだ。彼女は物語や言葉の力を思い知るのだ。助かった人々は、決してこれまでと同じように生きていくことはないだろう。なぜなら、彼らのなかには、自分たちにしか語れない「リア王」という物語が生きているからだ。『キング・イズ・アライヴ』とは、
失われた物語が彼らのなかに甦り、生きていることを意味しているのだ。 |