キング・イズ・アライヴ
The King Is Alive


2000年/デンマーク=スウェーデン=アメリカ/カラー/108分/スタンダード/ドルビーSR
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(初出:「キング・イズ・アライヴ」劇場用パンフレット)

 

 

不毛な砂漠のなかで甦る物語の力

 

 砂漠のなかで孤立し、危機的な状況にある人々が、なぜ「リア王」を演じるのか。『キング・イズ・アライヴ』を観ながら、それを不思議に思う人もいることだろう。砂漠で生き抜くために必要なものは何か。乗客たちに動揺が広がるなかで、冷静さを失わないジャックは、五つのものを挙げる。水、食料、シェルター、合図、そして希望。彼の言葉は合理的で、説得力があり、それを実践する以外に生き残る道はないように思える。

 しかし、クリスチャン・レヴリング監督は必ずしもそう思っているわけではない。ジャックの言葉は、生き残るための唯一の答に見えるが、レヴリング監督はあえてそれを、登場人物や観客に対する問いかけとして使う。確かに水や食料は不可欠だが、人間として生きていくためには本当に何が必要なのかということだ。登場人物のひとり、ヘンリーはこの問いかけに対して、「リア王」という答を出す。「リア王」とは、すなわち”物語”である。

 いま人々は物語というものを確実に失いつつある。『ジェネレーションX』や『マイクロサーフス』で人気の作家ダグラス・クープランドは、エッセイ集『Polaroids from the Dead』のなかで、このようなことを書いている。人間と他の動物との違いは、人間が物語を必要としていることだ。ところが、第二次大戦後に始まる郊外化、均質化されたライフ・スタイル、高度情報化社会のなかで、物語の基盤となっていた宗教、家族の絆、階級、イデオロギー、歴史などが消失し、中流の人々は空虚な世界を生きていると。

 彼の言うことはまったくその通りであり、それは深刻な問題でもある。最近では異様な事件が起こるたびにモラルの崩壊が叫ばれる。しかし崩壊といっても、モラルそのものがもともと何かの条文のように明確だったわけではない。クープランドが挙げているような要素を基盤とした物語が、モラルを明確にしていたのだ。だから、問題は物語の喪失なのだ。

 そんな時代のなかで、物語というものの意味を問い直す映画が登場してくるのは自然なことだといえる。たとえば、フランソワ・オゾン監督の『クリミナル・ラヴァーズ』。この映画では、リュックとアリスという高校生のカップルが、学校で顔見知りの生徒を殺し、その死体を捨てるために森に入っていく。ところが彼らは、「ヘンゼルとグレーテル」に酷似した設定に引き込まれ、森の男によって小屋に監禁されてしまう。男は凶暴で、逃げ出すためには彼を殺すしかないように見える。

 この映画は一見したところでは、カップルが現実から物語の世界に引き込まれるドラマである。しかし、学校での殺人に至る過程と小屋でのドラマが並行して綴られていくうちに、リュックは殺人を別な次元から見直し、現実と物語が逆転していく。実はアリスは、空虚な日常に退屈し、虚構の世界を生きている。リュックは彼女の虚構に誘い込まれ、殺人を犯してしまったのだ。そんな彼は、虚構と物語の違いを身体で知る。アリスの虚構とは単に現実から逃避するだけのものだが、物語はもともと現実に深く根ざし、 非常に過酷なものなのだ。つまり彼は、現実に根ざした物語の残酷な洗礼を受けることによって、現実とすりかえられた虚構を見極め、初めて心の痛みと罪悪感を覚えるのである。

 あるいは、押井守監督の『アヴァロン』。現実に失望し、仮想戦闘ゲームに没頭するヒロインは、自分が大切にしていたささやかな現実までも失っていることに気づく。そんな彼女は、アーサー王の物語に惹かれ、戦いつづけることによって、リセット不能の物語を生きようとする。青山真治監督の『EUREKA』には、物語に対する直接的な言及こそないが、同様のことがいえる。バスジャックをきっかけとして、日常を支える基盤が崩壊していることに気づいた主人公たちは、無秩序を受け入れ、過酷な自然のなかで彼らを繋ぐものを発見しようとするのだ。

 『キング・イズ・アライヴ』は、こうした問題意識を持った映画のなかでも、物語へのこだわりが際立っている。設定、映像、そして驚くほど緻密な構成が絡み合い、物語の意味を掘り下げ、緊迫感あふれるドラマのなかで物語の力を現代に甦らせてみせるのだ。


◆スタッフ◆

監督/脚本
クリスチャン・レヴリング
Kristian Levring
脚本 アナス・トーマス・イエンセン
Anders Thomas Jensen
撮影 イエンス・スロソ
Jens Schlosser
編集 ニコラス・ウェイマン・ハリス
Nicholas Wayman Harris
製作総指揮 ウィリアム・A・タイラー/ クリス・J・ポール/ デイヴィッド・リンディ/ ペーター・オールベック・イエンセン
William A.Tyrer/ Chris J.Ball/ David Linde/ Peter Aalbek Jensen
製作 パトリシア・クルージャー/ ヴィベケ・ウィンデロフ
Patricia Kruijer/ Vibeke Windelov

◆キャスト◆

ジーナ
ジェニファー・ジェイソン・リー
Jennifer Jason Leigh
カトリーヌ ロマーヌ・ボーランジェ
Romane Bohringer
リズ ジャネット・マクティア
Janet Mcteer
ジャック マイルズ・アンダースン
Miles Anderson
ヘンリー デイヴィッド・ブラッドリー
David Bradley
チャールズ デイヴィッド・カルダー
David Calder
レイ ブルース・デイヴィスン
Bruce Davison
カナナ ピーター・クベカ
Peter Kubheka
モーゼス ヴジ・クネネ
Vusi Kunene
ポール クリス・ウォーカー
Chris Walker
アマンダ リア・ウィリアムズ
Lia Williams
アシュリー ブライオン・ジェームズ
Brion James
(配給:アスミック・エース)
 


 物語へのこだわりは、ゴーストタウンに暮らすカナナの存在だけでもよくわかる。彼は間違いなく「リア王」を知らないが、物語については身体で知っている。アフリカには口承文学の伝統があるが、彼もその語り部のひとりだ。この映画は「何が起きたのか、それを話して聞かせよう」という彼の言葉で始まり、そして彼の言葉で終わる。 それは、これが現実のドラマであると同時に、語り部を通して語り継がれる物語であることを意味している。このカナナの物語には、ただ目に見えることを語るだけではない洞察が含まれているが、それはまた後で触れることにしたい。

 バスの乗客のなかにも、ただひとりだけ物語を身体で知る人物がいる。もちろんそれはヘンリーだ。この映画で、彼が他の乗客たちの様子を見つめながら、「リア王」を連想する場面はとても印象的である。その時、彼はカナナと肩を並べるように座っている。レヴリング監督は、このふたりに同じ視座を与えることによって、物語を知る人間と知らない人間を明確に分けているのだ。

 他の人々が物語と無縁であることは、劇のリハーサルによく表れている。役をもらった人々は、途切れ途切れの棒読みを始める。彼らにとってシェイクスピアは自分たちとは無縁の遠い世界の物語なのだ。ところが、王に扮するアシュリーが倒れると、感情を剥き出しにして争う。その極端な落差には、物語と現実の隔たりを見ることができるが、この登場人物同士の感情の軋みこそが、彼らを「リア王」の世界に引き込んでいくことになる。

 シェイクスピアの傑作「リア王」からは様々な意味を読み取ることができるが、この映画でレヴリング監督が特にこだわっているものに、”言葉”がある。リア王は、自分に対する三人の娘たちの愛を言葉で確かめようとする。そして、美辞麗句で飾り立てたゴネリルとリーガンの言葉を受け入れ、コーディーリアの誠実な言葉を拒絶する。この言葉のやりとりがすべての悲劇の始まりとなる。

 この映画でも、「リア王」の準備を始める段階から、言葉に対する裏切りがある。ヘンリーは最初、カトリーヌにコーディーリアの役を頼む。彼女はこの役に関心を持っているにもかかわらず、妙な自意識から受け入れることができない。そんなカトリーヌが、ジーナのリクエストに答えてフランス語で語る場面にも言葉の裏切りがある。彼女は、ジーナがフランス語がわからないことをいいことに、彼女を屈辱する。 しかも、昔話というかたちをとることによって、彼女が物語そのものを冒涜していることがわかる。

 この映画の登場人物たちの大半は、自分に正直に言葉を使おうとはしない。カナナはそんな彼らを見つめながら、その様子を「彼らはたくさんの言葉を話すが、語り合ってはいなかった」と表現する。しかし、それゆえに彼らのドラマは、確実に「リア王」へと近づいていく。他の人々とは違って自分に正直なジーナもまた、確実にコーディーリアに同化していく。そんなジーナを見ながら、物語の力というものに気づくカトリーヌは、ただひとりでコーディーリアを演じ始める。

 そして、彼らの現実が「リア王」を超えて、独自の物語の領域に踏み出す瞬間が訪れる。それは、チャールズが参加した劇のなかで、リズ扮するゴネリルが王への美辞麗句に満ちた台詞を語り終えたときだ。ヘンリーは、本来コーディーリアに向けられる冷酷な台詞を、あたかもゴネリルに答えるかのように言い放つ。そこには偽りの言葉に対する怒りが秘められているに違いないが、これまで外部から劇をコントロールしてきた彼がこの台詞を口にしたことによって、現実全体が「リア王」となり、物語は悲劇へと向かっていく。

 彼らは物語を生き、物語の力で生き延びる。そして、ジーナの犠牲によって、自分に誠実な言葉を獲得し、人間として生きていく道が開かれる。カトリーヌが深い悲しみに沈むのは、ジーナが自分の身代わりとなったことを痛感するからだ。彼女は物語や言葉の力を思い知るのだ。助かった人々は、決してこれまでと同じように生きていくことはないだろう。なぜなら、彼らのなかには、自分たちにしか語れない「リア王」という物語が生きているからだ。『キング・イズ・アライヴ』とは、 失われた物語が彼らのなかに甦り、生きていることを意味しているのだ。


(upload:2001/07/07)
 

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