その男、凶暴につき
Violent Cop


1989年 / 日本 / カラー / 103分 / ビスタサイズ
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(初出:キネマ旬報増刊「フィルムメーカーズ2 北野武」、若干の加筆)
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死に至る時間の流れ

 

 『その男、凶暴につき』は、北野武監督の作品のなかで特異な位置を占めているように思う。確かにこの映画も他の北野作品と同様に、物語は省略に満ち、 突発的な暴力と死が強烈な印象を残しはするが、映画のなかを流れる時間に対する監督の意識が他の作品とは大きく異なっているように感じられるのだ。

 北野作品は、この初監督作品から三作目の『あの夏、いちばん静かな海』にかけてスタッフの顔ぶれが固まり、北野本人も一作目の監督から、二作目の監督/脚本、 そして三作目以降の監督/脚本/編集へと着実に自己表現の現場を掌握していく。という意味では、自分の世界を具体化する環境が十分に整っていなかったことが、 異質な印象を与える要因になっていると考えることもできる。しかし筆者には、そうした条件も踏まえたうえで、あえて以後の作品とは異なるスタンスに徹しているように思えてならない。

 ■■異様な光景として写しだされる郊外住宅■■

 『その男、凶暴につき』には、映画として新鮮な衝撃を覚えると同時に、かなり個人的な関心から特別な興味をおぼえた部分がある。 それは郊外住宅のイメージである。たとえば、この映画の冒頭で、少年たちによる浮浪者襲撃に続いて、たけし扮する我妻が少年の家に出向くとき、そこにはこぎれいな住宅が闇に白く浮かび上がる。 それからさらに、口を封じられた防犯課係長岩城の葬式の場面でも、まだ空き地の目立つ住宅地にぽつんと建つ真新しい岩城の家が印象に残る。

 こうしたイメージが引っかかったのは、筆者が『サバービアの憂鬱』という本を書くほど郊外住宅地のライフスタイルに特別な興味を持っていたからではあるのだが、 その後の北野作品に照らしてみるといささか違和感を覚える人が少なくないはずである。というのも、他の作品ではこのように現代的な時代性を漂わせるイメージは、排除されるか、さらりと受け流されているからだ。 しかしだからとって、この映画のなかで郊外住宅のイメージが当たり前に現代的な空気を振りまいてしまっているというわけでもない。見事に異様な空気を醸しだしているのだ。 しかも他の作品では受け流されるイメージであるだけに、それはこの映画だけの空気ともいえる。


◆スタッフ◆

監督
北野武
脚本 野沢尚
撮影 佐々木原保志(J.S.C)
編集 神谷信武
音楽 久米大作
製作/原案 奥山和由
プロデューサー 鍋島壽夫、吉田多喜男
市山尚三

◆キャスト◆

我妻
ビートたけし
清弘 白竜
川上麻衣子
吉成 佐野史郎
菊地 芦川誠
岩城 平泉成
仁藤 岸部一徳
 
 
 
 
 


 筆者はよほどの興味がない限り、映画とその脚本を対比するということはしないが、この映画については、そういう興味から野沢尚の脚本をチェックした。 郊外住宅のイメージがどこからひもとかれ、あのような空気を醸しだすことになったのか確認してみたくなったからだ。ただし、 今回のように具体的に原稿を書くというような目的を持っていたわけではないので、厳密にチェックしたわけではない。しかしそれでも、脚本と映画の目指すものがまったく違っていること、 そしてその違いは郊外住宅のイメージひとつに端的に反映されていることはよくわかった。

 野沢の脚本では、筆者が引っかかった郊外住宅地やジェントリフィケーションが進むウォーターフロントといった舞台がとても具体的に意識されている。 彼はそんな舞台に、ドラッグやセックス、ハードロックやダンス・ミュージックを散りばめ、均質化し加速する消費社会が生みだす風俗を映画の背景としようとする。 そして、そうした背景から必然的に浮き上がってくるのが、我妻であり、麻薬取引きの黒幕、仁藤の殺し屋である清弘だ。彼らはそれぞれに事務的なタイプの署長と黒幕に仕えているが、次第に破滅的な性質を露にする。 我妻の場合は妹が精神に異常をきたしているという血に対する怯えによって、清弘の場合には麻薬に溺れることによって、彼らはともに暴力的な衝動へと駆り立てられ、対峙していくことになる。 もとの脚本には、だいたいこのような背景と人物の図式があったと記憶している。

 北野監督は、この脚本を映画化するにあたって、背景や人物を象徴したり、物語を構築するうえでそれぞれに意味を持つディテールを大胆に省略している。 もちろんこれは、北野作品の省略に満ちた世界に馴染んでいる人にとっては何ら驚くにあたらない。逆に筆者が印象的だったのは、 これだけ排除するなら、もっと徹底的に排除して脚本から逸脱することも不可能ではなかったのに、それをしなかったということなのだ。


 ■■なぜ脚本を徹底的に変えてしまわなかったのか?■■

 筆者は、監督北野武の魅力のひとつは、先入観に縛られている人間にはとても考えつかないような逆しまな発想だと思っているのだが、この脚本から映画への転換はその出発点といえる。 つまり、これは脚本家にしてみれば皮肉なことではあるものの、それぞれに意味を持ったディテールが盛り込まれた脚本とは、北野にしてみれば何を削除すればいいのかが明確に提示された脚本でもあるということだ。 ある意味では北野はこの脚本を尊重し、そのことがこの映画を特異なものにしているのだ。

 冒頭の少年たちによる浮浪者襲撃などはその好例である。脚本では、少年たちはマスクや武器などを準備しハードロックのビートに駆り立てられるように襲撃することになっている。 その後で我妻が少年の家を訪ねたとき、少年の部屋のドアには天狗を連想させるマスクが飾ってあるが、あのマスクをかぶっているところを想像してもいいだろう。 しかし映画では、少年たちには何の準備もなく、偶然出くわした浮浪者に遊び半分で暴行を加える。しかも北野は、マスクや武器の代わりにサッカーボールで少年たちを浮浪者に導き、浮浪者はサッカーボールであるかのように小突き回される。

 この脚本と映画の違いは、この襲撃の場面とそれに続くこぎれいな郊外住宅のイメージとの繋がりをまったく対照的なものに変えてしまう。脚本では、少年たちが画一的な郊外の生活のなかで、 非日常的な瞬間のカタルシスを求めるダークな欲望に駆られて襲撃することを意味している。それゆえに、郊外住宅のイメージは、少年たちのダークな世界とは対極にある日常を意味し、明暗のコントラストが強調される。 そこに我妻が現われ少年に暴行を加えるということは、型破りな刑事が日常にずかずかと踏み込んで非日常的な行為に及ぶことになり、物語の流れのなかで我妻のキャラクターを印象づけることになる。この狙いは非常によくわかる。


 一方映画では、サッカーボールという日常の延長で起こる襲撃から、何の落差もなく郊外住宅へとつながり、郊外住宅の日常は暴力的なイメージをいともたやすく取り込む。そこにすました顔をした我妻が現われて少年に暴行を加える。 ここには一般的なドラマとしての劇的な効果はないが、恐ろしいほど自然な流れのなかで、突発的な暴力を通して脆弱な日常が露呈してしまうような凄みがあるのだ。 北野は、安易に時代性を匂わせかねないこぎれいな郊外住宅のイメージを削除するのではなく、逆に利用し、易々とそのイメージを塗り替えてしまうのだ。

 これは岩城の家のイメージにも当てはまる。脚本では岩城が麻薬を横流ししていた背景にはやむにやまれぬ事情があることが明らかにされるが、映画では、岩城と我妻が会話する姿を窓ガラス越しに映すだけで省略される。 そこにはすでに死の予感すら漂っているが、実際に岩城の無惨な死を経た後で浮かび上がる住宅の光景は、空き地が目立つ分譲地にぽつんと建っていることもあり、 葬式とは別の意味で住宅そのものがまるで墓標であるかのように見えてくるのだ。===>次ページへ続く

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