『その男、凶暴につき』は、北野武監督の作品のなかで特異な位置を占めているように思う。確かにこの映画も他の北野作品と同様に、物語は省略に満ち、
突発的な暴力と死が強烈な印象を残しはするが、映画のなかを流れる時間に対する監督の意識が他の作品とは大きく異なっているように感じられるのだ。
北野作品は、この初監督作品から三作目の『あの夏、いちばん静かな海』にかけてスタッフの顔ぶれが固まり、北野本人も一作目の監督から、二作目の監督/脚本、
そして三作目以降の監督/脚本/編集へと着実に自己表現の現場を掌握していく。という意味では、自分の世界を具体化する環境が十分に整っていなかったことが、
異質な印象を与える要因になっていると考えることもできる。しかし筆者には、そうした条件も踏まえたうえで、あえて以後の作品とは異なるスタンスに徹しているように思えてならない。
■■異様な光景として写しだされる郊外住宅■■
『その男、凶暴につき』には、映画として新鮮な衝撃を覚えると同時に、かなり個人的な関心から特別な興味をおぼえた部分がある。
それは郊外住宅のイメージである。たとえば、この映画の冒頭で、少年たちによる浮浪者襲撃に続いて、たけし扮する我妻が少年の家に出向くとき、そこにはこぎれいな住宅が闇に白く浮かび上がる。
それからさらに、口を封じられた防犯課係長岩城の葬式の場面でも、まだ空き地の目立つ住宅地にぽつんと建つ真新しい岩城の家が印象に残る。
こうしたイメージが引っかかったのは、筆者が『サバービアの憂鬱』という本を書くほど郊外住宅地のライフスタイルに特別な興味を持っていたからではあるのだが、
その後の北野作品に照らしてみるといささか違和感を覚える人が少なくないはずである。というのも、他の作品ではこのように現代的な時代性を漂わせるイメージは、排除されるか、さらりと受け流されているからだ。
しかしだからとって、この映画のなかで郊外住宅のイメージが当たり前に現代的な空気を振りまいてしまっているというわけでもない。見事に異様な空気を醸しだしているのだ。
しかも他の作品では受け流されるイメージであるだけに、それはこの映画だけの空気ともいえる。
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