■■脆弱な日常が払拭されたあとで、映画に残るものとは■■
北野は、こうして野沢の脚本から背景や人物を象徴するようなディテールを排除しつつも、あくまでその骨格を維持していく。その結果として映画に刻み込まれるものは何なのか。
先入観によって構築された日常のドラマを払拭したあとに残るのは、登場人物たちが死に至るまでの時間の流れである。
これは映画のなかで十分に意識されている。最も印象的なのは、我妻が潜伏する売人の酒井に出会うところから始まる時間の流れだ。
我妻はドヤに潜伏していた酒井から殺し屋である清弘の話を聞きだし、ドヤを後にする。その後映画は、我妻が夜の街を歩きつづける姿を延々と映しだす。
我妻は歩道橋の階段で反対方向からやってきた清弘とすれ違い、なおも歩きつづける。そして突然きびすを返し、ドヤの近くで酒井の無惨な死体を発見する。
この一連の映像には酒井が死に至るまでの時間が冷徹に刻み込まれている。
脚本からすれば、我妻と清弘が似た者同士で、それゆえにお互いに引き付け合うといった展開があるわけだが、この映画を観てしまうとそういう表現はひどく虚しく感じられる。
彼らは、他の登場人物たちが死に至る時間の流れのなかで、その肉体というか、存在の強度だけが際立っていく。そして、似たもの同士であるとか、相手がどうのという感情などはもうどうでもよくなり、
彼らの肉体の運動は、揺るぎない時間原則と決着をつけざるをえない飽和点が迫りつつあることだけを物語る。だから、黒幕の仁藤などは、自分の話を終える前に我妻に銃弾をぶち込まれるしかないのだ。
この映画と以後の北野作品では、この時間原則に対する意識が違う。北野のように物語や言葉がまとう表層的な意味を排除し、かつ死にこだわろうとすれば、
当然のことながら揺るぎない時間原則と対峙しなければならなくなる。この映画で北野はそんな時間原則を正面からとらえている。ではこれ以後の作品はといえば、自己のスタイルを守りつつ、
この時間と空間をたわませ、どこまで死を異なる位相でとらえることができるかという命題に挑戦しているということになる。
そういう意味で、この『この男、凶暴につき』は北野作品のなかで特異な映画なのである。
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