北野武監督は、『TAKESHIS’』(05)と『監督・ばんざい!』(07)では、それぞれ俳優と監督としての自己を解剖、解体してみせた。この『アキレスと亀』では、画家としての自己を解剖、解体する。売れない画家の半生が、少年、青年、中年という三つの時代に分けて描き出されるのだ。
裕福な家に生まれた真知寿(まちす)は、両親と家を失う悲劇に見舞われ、画家になる夢だけを支えに生きていく。やがて青年となった彼の前に幸子という理解者が現れ、ふたりは結ばれる。だが、子供が生まれても、中年になっても、絵が売れることはない。
ピカソやシャガール、アクション・ペインティング、ポップアートなど、様々な絵画のスタイルをネタに真知寿が生み出す作品群は、ブラック・ユーモアになっている。しかし、絵が大好きで、伸び伸びと自分を表現していた少年が、ありもしない答えをそれがあるかのように信じ込まされ、どこまでも追いつづける物語は、残酷以外のなにものでもない。
『TAKESHIS’』には二人のたけしが、『監督・ばんざい!』には監督とその分身の人形が登場した。この映画では、主人公とベレー帽の関係を見逃すわけにはいかない。少年の真知寿は、彼の父親がパトロンになっている画家から、絵を褒められ、ベレー帽をもらう。彼はそれを、青年になっても、中年になっても、ずっとかぶりつづける。
ベレー帽は、真知寿の人格を支配する。彼と死の関係にそれが表れている。会社を経営していた父親や義母、少年時代に出会った自然児のような友人、青年時代の美術学校の仲間たち、そして、中年時代の自分の娘。彼は人生のなかで、何度となく身近な人間の死に遭遇するが、それらを背負うこともなければ、自分の生と結びつけることもない。彼が生きているのは、現実ではなく、画商が価値を決定する絵の世界であり、そんな世界をベレー帽が象徴している。
ところが、真知寿と一体化したこのベレー帽は、映画の終盤で意外とあっけなく消え去る。火をつけた小屋のなかで作品を制作するという捨て身の挑戦によって、燃えてしまうのだ。つまり、彼の絵の世界を現実が侵食する。だが、それで本当に彼は呪縛を解かれるのだろうか。
彼は自分の意思でベレー帽を脱いだわけではない。窒息しかけて病院に運ばれても変わらなかった彼が、黒焦げで病院に運ばれたからといって現実に目覚める保証はない。筆者は、彼が顔と頭を覆った包帯を取ってみると、もうひとつのベレー帽が見えてくるという不安を拭い去ることができない。 |