確かに、題材や表現スタイルはまったく違うが、暴力に対するこの監督の鋭い眼差しは、まったく変わっていない。
『憎しみ』のドラマを劇的なものにしていたのは、三人の主人公のなかにある暴力の意味や重さの違いだった。アラブ系とユダヤ系のふたりの若者は、望んだわけでもないのに移民労働者の子供としてフランスに生まれ、バンリューに押し込まれていることに不満をつのらせ、怒りが突発的な暴力に発展する危機感をはらんでいる。
これに対して、ボクサーであるアフリカ系の若者は、
部屋の壁にメキシコ五輪の表彰台で差別に抗議したカルロスやスミス、そしてモハメド・アリのポスターがはってあることからもわかるように、差別と怒りの歴史を踏まえ、また、ボクサーとして暴力の何たるかをわきまえている。
だからこそ彼は、仲間の短絡的な衝動を抑えようと腐心する。しかし、最後にこの暴力を知っている若者の忍耐が限界に達したとき、深い憎しみと暴力があらわになる。
『アサシンズ』の師弟関係では、こうした暴力の意味や重さの違いがいっそう際立っている。老いた殺し屋は暴力で生計を立て、弟子となった若者たちに暴力を伝授する。しかしながら同時に彼は、暴力の耐え難い醜悪さというものも明らかにする。『憎しみ』のボクサーと同じように暴力を知るがゆえに、その衝動を抑止する力も与えようとするのだ。
そして、この殺し屋と家族的な絆を築く25歳の若者は、その絆ゆえに暴力の醜悪さが耐え難いものとなり、自ら首をしめてしまう。しかしながら、テレビのザッピングと画面の敵を撃ちまくるシューティング・ゲームに没頭する13歳の少年には、暴力の醜悪さなど眼中にない。彼にとって耐え難いのは、殺し屋もまたひとりの人間であることの醜悪さなのだ。
『憎しみ』と『アサシンズ』のラストでは、現代社会の対極にある、まったく異質な暴力が浮き彫りにされるといってもよいだろう。 |